ジャパンがラグビーのトップ8の一角を初めて崩したのは1989年5月28日のことです。宿澤広朗監督率いる初陣のジャパンは、東京・秩父宮ラグビー場でスコットランド代表に28対24で勝利しました。この歴史的一戦にナンバーエイトとして出場し、大活躍したのがトンガ出身のシナリ・ラトゥ選手(現・ラトゥウィリアム志南利)でした。
38歳の青年監督が、まず着手したのは「ディフェンスの整備」でした。
<八シーズン英国のラグビーを見て、一つだけ明確に自信を持って分かっていたことは、国際ゲームにおいて失点を20点前後に抑えなければ勝つ可能性はないということであった。ジャパンには20点以上許さないディフェンスの整備が急務のように思えた>(宿澤広朗著『TEST MATCH』講談社)
わけても宿澤さんが力を入れたのが<サイドディフェンスの要となるのは中島(修二)・梶原(宏之)・ラトゥの第三列>(同前)でした。
当時、ラトゥさんは大東文化大学の4年生でした。ソロバンを学ぶための留学でした。
ちなみにラトゥさんは170を超える島々からなるハアパイ諸島の出身です。本人によると10人兄弟の長男。物心つく前からヤシの実をボール代わりにビーチで“草ラグビー”ならぬ“砂ラグビー”に興じていたそうです。
この馬力に溢れたトンガからの留学生に宿澤さんは減量を命じました。
以下はラトゥさんの回想です。
「僕の体重はその頃、100キロを超えていた。これを90キロにまで落とせ、というのが宿澤さんの最初の指示。“エッ、無理でしょう”と思ったけど、91キロか92キロくらいまでには落としたかな。“スコットランドに走り勝つんだ”と宿澤さんは言ってたね」
ラトゥさんの伝説のタックルが飛び出すのは後半16分のことです。スコアは20対18。最大で17あった点差は徐々に詰められ、競技場には重い空気が漂い始めていました。
スコットランドの巨漢バックス、マット・ダンカン選手がコーナーフラッグぎりぎりを狙って突進してきました。それを弾き飛ばしたのがラトゥさんでした。
「多分来るだろうな、と思って(タックルのタイミングを)狙っていたんだよ。(ダンカンの前にいたのは)小柄な吉田義人だから、多分、止められないだろうって。そしたら、本当に来ちゃった。横からドーンと弾き飛ばしてやったよ。すると、向こうの方にまで飛んでいっちゃった。おそらく、あのタックルが決まっていなかったら逆転され、日本は負けていたかもしれない。タックルの手応え? もうピッタリという感じ。弾き飛ばされたのが余程悔しかったのか、相手はオレに向かって“ファック!”って叫んだんだ。それも今となっては、いい思い出だよ(笑)」
自他ともに認める乾坤一擲のタックルでした。その時の体の感触を今でも覚えている、とラトゥさんは言います。
しかし残念ながら、この金星をスコットランドはテストマッチとして認めていません。
それから30年後の10月13日、ジャパンはW杯日本大会でスコットランド代表を28対21で撃破し、夢にまで見た決勝トーナメント進出を果たしました。
大会前、キャプテンのリーチ・マイケル選手は、外国にルーツを持つ選手たちにラトゥさんのジャパンへの貢献について語ったそうです。「昔があって今がある。歴史はつながっているんだと言ってくれたそうだけど、あれはうれしかったね」とラトゥさん。大学卒業後に勤めていた三洋電機は12年にパナソニックに吸収合併されましたが、今もその子会社で空調設備の営業マンとして働いています。
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