山椒は小粒でもピリリと辛い――。1991年イングランド大会、95年南アフリカ大会とW杯に2度出場した堀越正己さんのプレーには、そんな印象がありました。名スクラムハーフとして鳴らした堀越さんにとって、最も印象に残る試合は、何と自らが出場しなかった91年イングランド大会でのスコットランド戦だというのです。
――91年第2回W杯はイングランドを中心にスコットランド、ウェールズ、アイルランド、フランスでも行われました。
堀越正己:第1回大会は予選がなかったのですが、第2回大会から予選を経てW杯に出場しました。予選の相手は韓国、トンガ、西サモア。特にトンガは強かった。その中で勝ちとったW杯への切符ですから強い思いがありました。
――初戦のスコットランド戦。スクラムハーフに起用されたのはライバルの村田亙さんでした。
堀越:僕は95年大会と合わせると2度W杯に出場しています。中でも一番記憶に残っているのがこの第1戦なんです。当時リザーブ選手はスタメンがケガをしない限り、なかなか出番は巡ってこなかった。観客席の中にリザーブ席があり、そこで試合を観ていました。
――会場はスコットランドの首都エディンバラで行われました。
堀越:初めて本場スコットランドの応援を肌で感じました。ジャパンはフルバックの細川隆弘さんのドロップゴールや、相手の中心選手を鋭いタックルでかち上げた。最後は9対47と点差は開きましたが、前半は勝てそうな雰囲気もありました。“世界とも戦えるんだ”という実感と、そのピッチに自分が立てていない悔しさが入り混じった複雑な心境でしたね。
――それまでのキャップ数は堀越さんの方が村田さんを上回っていた。スコットランド戦のメンバー発表を聞いた時のショックは?
堀越:それはもう大変なショックでした。試合前の練習にスパイクを忘れて行くなど、自分でも考えられないようなミスをしてしまうほど動揺していましたから。
――スコットランドには2年前(89年)のテストマッチで28対24と大金星をあげています。宿澤広朗監督がその時の会場となった秩父宮ラグビー場に隣接する伊藤忠商事からスコットランドの秘密練習を偵察したというのは有名な話です。
堀越:相手のことを分析した上で、ひとりで突破できる村田さんの起用となったんでしょう。村田さんからのサインプレーを練習し、いろいろと試そうとしていました。
――宿澤さんも現役時代はスクラムハーフでした。「宿澤の再来」と呼ばれた堀越さんにとっても特別な存在だったのでは?
堀越:ええ。僕にとっては師であり、結婚式の仲人もしていただきました。準備ということに関しては、ジャパンの前HCエディー・ジョーンズさんも有名ですが、宿澤さんもかなり細かくやっていました。
――宿澤さんの「準備力」で“ここまでやるか”と思ったことは?
堀越:スコットランド戦前の偵察も後から聞いて驚きました。他にもW杯予選の重要な試合を担当する可能性のあったレフェリーを招待しました。その人のレフェリングのクセを知り、ジャパンの特徴も知ってもらう。それはすごいなと思いましたね。試合を行うグラウンドは下見に行って、ロッカールームまで確認されたという話も聞きました。対戦相手のトンガと西サモアにBチームを連れて遠征している。若手を育てながら敵を探っていたんです。
――次戦のアイルランド戦で堀越さんはW杯デビューを果たしました。
堀越:当時のアイルランドは今ほどの強豪国ではなく、我々としても“勝つチャンスはある”と見ていました。しかし試合が進んでいく中で、相手の体格や迫力に“怖い”と感じるようになった。ピッチで圧倒されていた自分がいたと、今になって思いますね。この頃は今ほど代表のテストマッチが組まれてはいなかった。そういう意味でも本気で戦ってくる外国相手の試合経験が少なかった。
――ご自身のプレー内容は?
堀越:悔しいから試合をビデオでは観てはいませんが、自分のプレーはやり切っていなかったと思います。こんなことは誰にも言ったことがありません。当時は恥ずかしくて「怖かった」なんて言えませんでしたから……。
――1次リーグ最終戦となったジンバブエ戦。既に決勝トーナメント進出の道は絶たれていました。
堀越:2勝をあげての決勝トーナメント進出を目標にしていたので、それがかなわず悔しい思いもありました。ただ、これまでW杯で勝ったことがなかったので、チームが“まずは1勝しよう”とまとまれたんだと思います。ジンバブエ戦は、前半苦戦しましたが、後半からボールを動かし始め、点数が取れました。
――ジンバブエの世界ランキングは日本よりも下位でした。
堀越:それでも予選同様に宿澤監督はジャパンのBチームを連れてジンバブエ遠征に行っているんですよ。いろいろなクラブと戦い、相手のキープレーヤーをしっかりと分析していました。
――試合は52対8と完勝でした。1試合9トライは当時のW杯最多記録です。最初のトライは前半22分に堀越さんがあげたものでした。
堀越:そうですね。へんてこりんなトライでした(笑)。僕はマイボールスクラムが崩れたところを、ボールを持ち出してインゴールに飛び込みました。片手一本で体を浮かされましたからね。なんとかギリギリでボールをランディングしていたのでトライが認められた。それだけ相手のパワーはすごかったってことですよ。
――ノーサイドの瞬間は?
堀越:勝ったうれしさとともに、“W杯がこれで終わってしまうんだな”と、何とも言えない寂しさも覚えましたね。
<堀越正己(ほりこし・まさみ)プロフィール>
1968年11月27日、埼玉県熊谷市出身。熊谷工高でラグビーを始める。スクラムハーフとして豊富な運動量と俊敏な動き、巧みなパス捌きが武器だった。3年時には全国大会で準優勝。早稲田大学に進学後、87年に日本選手権優勝を果たした。91年から神戸製鋼に入社。W杯には91年、95年と2大会出場。91年大会では初勝利に貢献した。99年に現役引退。同年4月から立正大学ラグビー監督に就任。15年からは埼玉ラグビーアンバサダーとしてW杯のPR活動を担っている。ジャパン26キャップ。身長160センチ。著書に『勝つためのチームメイク』。
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