元ラグビー日本代表で、2011年ニュージーランド大会、15年イングランド大会、19年日本大会と、3度のW杯に出場し、歴代7位の通算75キャップを誇るスクラムハーフ田中史朗選手(NECグリーンロケッツ東葛)が、今シーズン限りでの引退を発表しました。「山椒は小粒でもピリリと辛い」を地で行くような選手でした。
4月25日に都内ホテルで開かれた記者会見で、田中選手は引退に至った経緯を次のように説明しました。
「日本代表が終わって(呼ばれなくなって)から何年もプレーさせていただき、本当に体がきついというのが、まずひとつです。下の世代からも、すごくいいプレーヤーが出てきている。(それは)本当に悲しくもあり、うれしくもあった。日本のラグビーがすごくレベルアップしてきて、僕が今のパフォーマンスで現役を続けることが、“正直いいのかな”という思いもありました。それをずっと考えながらやってきて、限界というものを感じてこういう決断に至りました」
今後については「NECグリーンロケッツ東葛アカデミーのコーチとして、普及活動を続けていく予定」とし、「将来的には日本代表のヘッドコーチ(HC)をやってみたい」と踏み込みました。
それにしても「日本代表HC」とは大きく出たものです。目指すHC像について聞かれると、「厳しさが絶対に必要。特に日本では厳しさがないと世界で勝てない」と答え、こう続けました。
「選手と一緒に戦っていける家族のような、何でも話せる間柄になっていきたい」
田中選手は、伏見工業高(現・京都工学院高)、京都産業大学を経て、三洋電機(現・埼玉パナソニックワイルドナイツ)、横浜キヤノンイーグルス、グリーンロケッツでプレー。13年にハイランダーズ(ニュージーランド)の選手として、南半球最高峰リーグのスーパーラグビー(SR)にて日本人初出場を果たしました。
キャリアのハイライトは、第1次エディー・ジョーンズHC指揮下のW杯イングランド大会ではなかったでしょうか。
日本代表は1次リーグ初戦の南アフリカ戦で34対32の大番狂わせを演じ、“ブライトンの奇跡”と称えられました。この試合、田中選手はスクラムハーフとして先発出場し、66分間プレーしました。
「僕はSRで、いろんな強いチームとやってきた。その経験に照らしていえば、思っていたほどのプレッシャーはなく、こっちもボールをしっかりと前に運ぶことができていた。だから、あっ、これならいけるだろうと思っていました」
引退の報に接したエディーHCの“惜別の言葉”が振るっていました。
「彼とはたまにケンカをしました。でも、いいファイトでした」
思い出すのは15年イングランド大会、第4戦の米国戦前の“ファイト”です。
以下は田中選手の述懐です。
「ある外国人選手が練習で反則を繰り返している。そこで僕が怒ったら、そいつが言い返してきた。そこへ割って入ってきたのがエディー。“こいつは反則を犯して自分にプレッシャーをかけている”と。それが僕には“こいつだけは反則を犯していいだ”みたいに聞こえた。それで僕もカッとなって、“そりゃ、おかしいやろ”って。以来、エディーはずっと機嫌が悪かった(笑)」
再びエディーHCのコメントです。
「彼は日本ラグビーを変えてくれた。2015年を思い出すと、日本代表でリーチ(・マイケル)や廣瀬(俊朗)がメディアに中心選手として注目されていた。彼らはもちろん大事な選手ですが、フミ(田中選手)が一番チームをドライブしてくれた選手だった。ハイランダーズでのプレー経験もありましたし、日本人であることにとても誇りを持っていた。チームの考え方を誰よりも変えてくれた」
組織を豆腐に例えましょう。豆乳だけでは固まりません。ところが“にがり”という凝固剤を入れると、きれいにひとつにまとまるのです。
この“にがり”は文字通り、苦く、組織においては同調圧力に屈しない、いわば異分子であるとも言えます。組織に活力をもたらす一言居士といってもいいでしょう。少なくとも、過去最高の3勝(当時)をあげたイングランド大会でのエディージャパンにおいて、田中選手は、自ら“にがり”の役割を演じているように、私の目には映りました。
目標である日本代表HCに向け、今後、指導者としてどんなキャリアを重ねるのか。この先がますます楽しみな田中選手です。
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