
高野連が議論を進める7イニング制の導入の是非について、反対の立場を崩さないのが春夏合わせて10回の甲子園優勝を誇る強豪・大阪桐蔭の西谷浩一監督です。報徳学園で西谷監督の6年先輩にあたる金村義明さんは、「そりゃ、僕らは『逆転の報徳』で育った人間ですから」と語っていました。
金村さんは1981年夏の優勝投手です。ドラフト1位で近鉄に入団した後は野手に転向し、移籍した中日、西武も含めプロ通算939安打をマークしました。
その金村さんも、7イニング制の導入には反対の立場を取ります。「9回制の方がドラマが生まれやすいし、それが野球の醍醐味やと思う」と語っていました。
西谷監督も朝日新聞(5月18日付)のインタビューで<やっぱり7イニング制は違うんじゃないか、というのが僕の考えです>と前置きして、こう述べています。
<子どもたちの出場機会が2イニング分減ってしまう。子どもたちを育てる中で、非常に大きな2イニングです。最後の2イニングに多くのものが詰まっている。技術的にも精神的にも色んな力を成長させてくれるこの2イニングがなくなることはすごく不安です>
「逆転の報徳」で育った人間――。7イニング制の是非はともかく、金村さんの言葉がストンと胸に落ちました。
報徳学園は兵庫県西宮市に校舎を構える中高一貫の私立中・高です。1911年創立で、野球部は32年に創設されました。甲子園では春2回(74、02年)、夏1回(81年)の優勝を誇ります。
代名詞でもある「逆転の報徳」は61年夏の甲子園1回戦に起因します。相手は岡山の強豪・倉敷工でした。
実はこの大会、報徳学園にとっては春夏通じて初の甲子園出場でした。対する倉敷工は夏は3回目、この時点で春夏合わせ6回目の出場です。
倉敷工・永山勝利投手、報徳学園・酒井癸三夫投手の息詰まる投げ合いで両チームとも無得点のまま、延長戦に突入します。
延長10回も両チーム無得点。試合が動いたのは11回表でした。倉敷工は酒井投手と継投した東淳介投手に襲いかかり、1死満塁から松本芳男選手の二塁打を突破口にして、一挙6点を奪ったのです。
この時点で、報徳学園の逆転勝ちを想像したものは、おそらく皆無だったはずです。2、3点ならともかく、6点は重すぎます。
ところが、代打の平塚正選手が内野安打で出塁すると、打線がつながり、打者一巡の猛攻で6点を奪い返すのです。倉敷工はイニングの途中で、故障を抱えていたエースの森脇敏正投手をマウンドに送りますが、報徳学園の勢いを止めることはできませんでした。
6対6の12回裏、報徳学園は1死満塁から貴田能典選手がライト前にサヨナラヒットを放ち、熱戦に終止符が打たれました。このゲームこそが「逆転の報徳」の源流なのです。
調べているうちに、おもしろい発見がありました。サヨナラのホームインを見届けた倉敷工のキャッチャーこそ、立教大を経てドラフト1位で巨人に入団する槌田誠さんなのです。当時は2年生でした。
槌田さんが入団した67年は、後に9連覇を達成する巨人にとって3連覇の年にあたります。レギュラー捕手は森昌彦(後の祇晶)さん。控えには大橋勲さんという慶応大出身のキャッチャーもいました。
森さんによると、川上さんは「六大学野球出身の2人のエリート捕手を指さしながら、“森も今年で終わりやのォ”と、これ見よがしにつぶやいた」そうです。森さんに発破をかける狙いもあったのでしょう。
少年の私は、槌田さんの勝負強いバッティングと俊足を見せつけられて、不思議に思ったものです。「なぜ、この人がレギュラーになれないのだろう……」
逆に言えば、それだけ当時の巨人は層が厚かったということです。
最後、「逆転の報徳」に話を戻せば、槌田さんは延長11回裏、外野からの返球を後逸し、同点のホームインを許しています。その意味では、奇跡の逆転劇の演出者だったと言えるかもしれません。
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