明治神宮大会の優勝校はセンバツでは勝てないーー。そんなジンクスを覆して、頂点にまで上り詰めたのが1984年の岩倉(東京)です。エース山口重幸投手を中心にした粘り強い野球で、初出場初優勝を果たしました。
この大会の優勝候補の筆頭は桑田真澄投手、清原和博選手を擁するPL学園(大阪)でした。前年の夏には、ともに1年生だった2人の活躍で、全国制覇を果たしています。そのPL学園を決勝で破った岩倉の“大番狂わせ”に、日本中が驚きました。
1回戦 4対2 近大福山(広島)
2回戦 6対4 金足農 (秋田)
準々決勝 4対3 取手二 (茨城)
準決勝 2対1 大船渡 (岩手)
決勝 1対0 PL学園 (大阪)
明治神宮大会は73年に始まりましたが、岩倉が優勝を果たすまで、紫紺の大旗を手にした高校はありませんでした。実際、大会前の下馬評でも岩倉はノーマーク。山口投手によると「自信は全くなかった」そうです。「望月(市男)監督からの指示も“楽しんでいこう”というだけでしたから……」
ところが、1回戦で近大福山に競り勝つと岩倉は勢いに乗り、あれよあれよという間に、決勝にコマを進めます。<広まる文化を象る鉄路>。鉄道学校らしい校歌が、4回も甲子園で流れました。
しかし、決勝の相手は、ここまで甲子園20連勝中(81年春1回戦から84年春準決勝)のPL学園です。岩倉が勝つ可能性は100に1つ程度と思われました。
身長177センチの山口投手は、前年秋の神宮大会決勝で京都商を完封したほどの好投手ですが、ストレートのスピードは140キロそこそこ。ただし、パームボールをはじめとする変化球は多彩で、「打たせてとる」典型的なピッチャーでした。「僕のはイカサマ・ピッチング。バットの芯を外すことしか考えていませんでした」と本人。だが、この“イカサマ・ピッチング”が決勝では効果を発揮するのです。
先に「岩倉が勝つ可能性は100に1つ程度」と書きましたが、それには「クロスゲームに持ち込んだ場合」という前提条件が付いていました。岩倉は、それに成功します。
岩倉・山口投手、PL学園・桑田投手、両エースの投げ合いで、試合は6回が終了して0対0。これは岩倉からすれば、願ってもみない展開です。
7回表、PL学園は四球で無死一塁。ここで打席に入ったのが4番・清原選手です。既にこの大会だけで3本のホームランを放っていました。
打席に入るなり、清原選手はバントの構えを見せました。「打ってこられた方が嫌だった」とは山口投手。犠打は成功し、1死二塁。内野手がマウンドに集まり、山口投手にこう告げたそうです。
「オマエ、いいピッチャーだなァ。あの清原がバントだぞ」
この一言でリラックスした山口投手は後続を打ち取り、この回もゼロに抑えました。
均衡が破られたのは8回裏。この回、岩倉先頭の武島信幸選手がライト線に二塁打。2死一、二塁から2番・菅沢剛選手がライト前に弾き返し、先制点をもぎ取りました。結局、この1点が決勝点となり、岩倉が1対0でPL学園を破り、頂点にまで上り詰めたのです。東京の下町の高校が起こした“春の奇跡”でした。
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