最初に彼を見た時は、高校野球の中に、ひとり社会人のピッチャーが混ざっているような印象を受けたものです。今回紹介する仙台育英(宮城)のエース大久保美智男投手は、身長183センチ、体重88キロの偉丈夫でした。
忘れられないのは1978年、夏の甲子園の1回戦です。相手は高松商(香川)でした。大久保投手と河地良一投手の3年生同士の投げ合いは延長17回まで続き、17回裏、1死満塁のチャンスを得た仙台育英が死球による押し出しで1対0のサヨナラ勝ちを収めました。
今でも最後のシーンは、はっきり覚えています。高校生離れした体格の大久保投手とは裏腹に、河地投手は細身で、キレのいいシュートを得意にしていました。
1死満塁で仙台育英のバッターは9番・嶋田健選手。1ボール1ストライクからの3球目、キャッチャーの堀雅一選手はインコースにミットを構えました。おそらくバッテリーには、シュートで詰まらせホームゲッツーの意図があったのでしょう。
ところが、わずかに手元が狂ってしまいました。嶋田選手のヘルメットがコーンと鈍い音を立てた瞬間、全てが終わってしまったのです。河地投手にとっては無情の205球目でした。
驚いたのは夜のスポーツニュースでたまたま、この試合をテレビで見ていたロッテの金田正一監督が、「敗れはしたが河地君は立派」と褒めちぎっていたことです。
「あそこでインコースを攻めるのは当然や。たまたま手元が狂っただけで、あれは責められんよ。ええピッチャーやな。ボールに切れがある。ウチに欲しいくらいだよ」
河地投手が「切れのあるボール」なら、大久保投手は、ズドンというタイプのボールでした。この試合は被安打9、四死球1で完封勝ちを収めました。
大久保投手は、高校卒業後、ドラフト会議で広島から2位指名を受けて入団するのですが、同僚だった川口和久さんは、大久保投手のボールを、こう評していました。
「おそらく、ボールの回転数が少なかったんだろうね。キャッチャーミットにドーンと収まるようなボール。いわゆる“重いボール”ですよ」
川口さんは続けます。
「彼が異彩を放っていたのは肉体。ズングリムックリとまでは言わないまでも、かなり太っていた。高校を出てからプロに入ってくるピッチャーは細身と相場が決まっている。特に広島の場合、“陸上部”と言われるくらい走らされたからね。それでも体は細くならなかった。元々、そういう体型だったんだろうね」
余談ですが、65年から始まったドラフト会議で1度だけ全球団が参加しなかったのが78年です。巨人がドラフト会議前日、“空白の一日”を利用して江川卓さんと契約。連盟が巨人の選手登録申請を却下したため、その意趣返しとばかりに巨人は翌日のドラフト会議をボイコットしたのです。
この年、広島が1位に指名したのは社会人ナンバーワン左腕の木田勇さんでした。大洋と阪急も指名しましたが、広島が当たりクジを引き当てました。しかし、在京球団を希望した木田さんは広島入りを拒否します。
広島の2位指名は高校球界ナンバーワンスラッガーとの呼び声が高かった豊見城(沖縄)の石嶺和彦さんでした。しかし、当たりクジを引いたのは阪急。そこで、いわゆる“ハズレ2位”として大久保投手を指名、獲得したのです。
球団の大久保投手への期待がいかに大きかったか。それはピッチャーでは異例の「1」という背番号に表れていました。それまで広島の「1」は白石勝巳さん、古葉竹識さん、大下剛史さんらリーダー格の内野手が背負うという不文律がありました。大久保投手のプレッシャーは、いかばかりだったでしょう。
結局、大久保投手、プロでは鳴かず飛ばずに終わりました。6試合に登板し、10イニングを投げ、防御率3.60という記録が残っています。
1軍で打たれたホームランはわずかに1本。それは同じ「背番号1」の大選手、巨人・王貞治さんに打たれたものでした。どこまでも「1」に縁のある野球人生でした。
データが取得できませんでした
以下よりダウンロードください。
ご視聴いただくには、「J:COMパーソナルID」または「J:COM ID」にてJ:COMオンデマンドアプリにログインしていただく必要がございます。
※よりかんたんに登録・ご利用いただける「J:COMパーソナルID」でのログインをおすすめしております。