1983年の夏といえば、桑田真澄投手と清原和博選手の1年生コンビが大活躍し、PL学園高(大阪)が2度目の全国制覇を果たしたことで知られています。しかし、“事実上の決勝戦”と言われたのは8月19日、準々決勝での池田高(徳島)対中京高(現・中京大中京高、愛知)戦でした。水野雄仁投手と野中徹博投手の熱のこもった投げ合いは、今も記憶に残っています。
この大会の本命は82年夏、83年春に続き夏春夏3連覇を狙った池田でした。3年生になり、エースナンバーを背負った水野投手は春の大会、5試合をひとりで投げ抜き、徳島に紫紺の大旗を持ち帰りました。
そして迎えた夏、3回戦の広島商高戦で水野投手にアクシデントが発生します。5回の打席で沖元茂雄投手から頭部に死球を受けてしまったのです。
この死球を受けるまでの4番・水野選手の打率は、実に8割3分3厘(12打数10安打)。「投手でも野手でもドラフト1位」というのがネット裏のスカウトたちの評価でした。
準々決勝の相手・中京には水野投手がライバルと認める選手がいました。エースの野中投手です。2人には面識がありました。
<二年の夏の甲子園大会後、全日本メンバーに選ばれて合宿に行った時、中京からも野中と外野手の今井陽一という二年生が選ばれていた。その時は、それほど会話をすることもなかったが、その後国体に出場した時、野中たちと久しぶりに会い、親しく話す機会が出来た。
野中が話す、中京の練習内容や雰囲気はとても新鮮だった。それまでは自分たちのチームしか知らないから、ウチが一番すごい、一番厳しいと思っていたのが、初めてほかのチームの厳しい部分なんかを聞かされて、『みんな大変なんだな。ウチだけじゃないんだな』と思ったりもした>(水野雄仁著『友情』ザ・マサダ)
強気で鳴る池田・蔦文也監督も「ウチの打線を抑え込むとしたら、野中君ぐらいしか考えられない」と警戒していました。
水野投手も野中投手も、高校生とは思えないような立派な体躯の持ち主でした。水野投手、身長178センチ、体重74キロ。対する野中投手は水野投手よりも一回り大きい身長182センチ、体重85キロ。水野投手の持ち味がスピンのきいたフォーシームなら、野中投手は見るからに重そうなストレートを投げていました。
<試合中にスタンドを見て『よく入ったなあ』と感心していた。チェンジの時に、野中と直接ボールを交換し合い、そのたびに「負けないよ」「お前もしっかり投げろよ」と、口にこそ出さないが、無言のエールを送り合っていた。
投げていてすごく燃えたし、すごく楽しかった。それは野中も同じだったと思う。知っているからというだけでなく、お互いに力を認め合っていた>(同前)
試合は1対1のまま9回へ。勝負を決めたのは池田の7番・高橋勝也選手のソロでした。フルカウントからの真ん中高めのストレートをレフトスタンドに運びました。このように池田には下位打線にも一発のある選手が揃っていました。その後、9番打者にもタイムリーが飛び出し、池田が3対1で勝利しました。
この年のドラフトで野中投手は1位指名を受け、阪急ブレーブスに入団します。<背番号18>に球団からの期待の大きさが表れていました。
しかし1軍に上がった2年目の6月、肩を痛め、投げられなくなってしまいます。不運は重なるもので、肝炎にもかかり、40日間に及ぶ闘病生活を余儀なくされました。
内野手に転向したのは5年目のシーズンです。やっと内野にも慣れかけたところで、球団から戦力外通告を受けてしまうのです。
私が野中投手に初めてインタビューしたのは、93年の6月です。野中投手は台湾に渡り、俊国ベアーズのマウンドに立っていました。28歳の野中投手は訴えかけるように、こう語りました。
「もう一度、日本のマウンドに立ちたい。そして、自分なりに結論を出してみたいんです。というのも、ブランクの間に、随分、野球に対する考え方がかわりました。そして精神的にも以前より、だいぶ大きくなれたような気がするんです」
このシーズン、野中投手は15勝を記録し、それが認められて94年、中日ドラゴンズに入団。97年にはヤクルトスワローズに移籍し、5月27日の横浜ベイスターズ戦にリリーフでNPB初勝利をあげました。14年かけての初勝利に野村克也監督は「今の時代、男が涙するなんて、そうはないこと。苦労してきたから泣けるんや。いい涙や」と語り、目を潤ませていました。
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