
春夏通じて優勝旗が初めて津軽海峡を越えたのは2004年の夏でした。決勝で春夏連覇を狙う愛媛代表の済美を13対10で下した南北海道代表の駒大苫小牧は、真紅の大旗を北の大地に持ち帰りました。今回は敗れた済美の4番・鵜久森淳志(元・北海道日本ハム―東京ヤクルト)さんに、21年前の夏を振り返ってもらいました。
――済美は春夏連覇を狙っていました。先攻の済美は1回に2点、2回に3点を取り、5対1に。連覇に近づいたかと思われました。
鵜久森 この4点差は大きいなと思いました。追加点を重ねていけば勝てるなと……。
――ところが苫小牧は3回に2点、4回に3点を取り、ついに試合を引っくり返します。
鵜久森 苫小牧が点を取るたびに、球場の雰囲気が変わっていきました。向こうのブラスバンドが勢いを増し、やがて球場全体を飲み込んでいきました。甲子園で、ああいう雰囲気を経験するのは初めてでした。
――打ちも打ったり、両チーム合わせて39安打(済美19安打、苫小牧20安打)。これは春夏通じて決勝では最多記録です。
鵜久森 ウチは先発全員安打なんです。それで負けたことって、過去にあるんですかね。レフトを守っていた僕からすれば、打球を追いかけてばかり。まあ、言ってみれば乱打戦ですよね。見ている人には、ものすごく面白い試合だったと思います。
――この大会、済美はセンバツ優勝の立役者である高橋勇丞選手を欠いていました。
鵜久森 代わりに3番に入った水本武もよく打ってくれたんですが、やはり高橋の穴は大きかった。相手からすれば3番・高橋、4番・鵜久森という並びが嫌だったと思うんです。逆に言えば、高橋がいないのに、よく夏も決勝まで来られたと思います。
――済美は10対13と3点のビハインドで9回表を迎えます。そして2死一、三塁で鵜久森さんに打席が回ってきます。ホームランが出れば同点です。
鵜久森 この回、球場の雰囲気がまた変わったような気がしました。僕の前のバッターが四球を選んで出塁したんですが、僕にまで打席が回ることを期待しているような雰囲気でした。既に3本のホームランを打ってましたから……。
――しかし、結果はショートフライ。連覇の夢が潰えました。
鵜久森 打ったのは鈴木康仁投手の初球の真っすぐです。“来た!”と思って振り抜いたんですけどね。僕はこの試合もヒットを2本打っているんですが、4番としてはあそこで打たないとインパクトを残せないですよね。しばらくは“オレのせいで負けたんや”と思っていました。
――上甲正典監督からは何か言われましたか?
鵜久森 「オマエがホームラン打ってたら勝ってた」と。あの年から10年、挨拶に行くたびに言われました。もう、挨拶に行くのが嫌になるくらいに(笑)。上甲監督は宇和島東の監督として88年の春、済美の監督として04年の春に優勝している。是が非でも夏に勝ちたいという思いがあったんだと思います。
――恩師でもある上甲監督に最後に会ったのは?
鵜久森 忘れもしない2014年9月1日、上甲監督がお亡くなりになる1日前です。日本ハムの選手だった僕は東京ドームでの試合後、移動日休みを利用して北海道に戻らず松山に飛びました。病院に直行すると、30分だけ面会が許された。もう、お話はできない状態でした。娘さんが「手を握ってください」と言うので手を握ろうとすると、パーンとはたかれた。こんなことをされたのは僕だけです。
――それは、“もっと頑張れ!”という無言の叱咤激励だったのでは……。
鵜久森 今となっては、そう思います。とにかく僕は高校の3年間で「よくやった」と褒められたことが一度もない。怒られたことしか記憶にないんです。上甲監督には、プロ入りする前、「オマエ、15年はやれ!」と言われました。日本ハムとヤクルトで、どうにか14年プレーすることができました。その点だけは、ほぼ約束が果たせたかな、と思っています。
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