選手権大会は1915年にスタートし、第2回大会で東京の慶應普通部が優勝を果たしますが、再び深紅の大旗が箱根の山を越えたのは、その33年後のことでした。
1949年の夏を制した湘南(神奈川)には、長じて“お茶の間の人気者”になった選手がいました。爽やかな弁舌と小気味いい仕切りで「プロ野球ニュース」のキャスターを務めた佐々木信也さんです。
佐々木さんは1年生ながらレギュラーとして活躍し、優勝の立役者となりました。
「僕は7番レフトで、確か17打数6安打だったかな……」
佐々木さんの記憶が正しければ、打率は3割5分3厘ということになります。
2回戦から出場した湘南は初戦で南四国代表の城東(徳島)を9対3で下し、勢いに乗ります。準々決勝の相手は信越代表の松本市立(長野)。この試合でサヨナラヒットを打ったのが佐々木さんでした(2対1)。
準決勝の相手は“怪童”中西太さん擁する北四国代表の高松一(香川)。優勝候補の一角に名を連ねていました。中西さんも佐々木さんと同じく1年生ながら、こちらは4番を打っていました。
中西さんの強打は既に注目の的で、豆タンクのような体から弾き出される打球はプロ野球選手も顔負けでした。
佐々木さんによるとこのゲーム、試合の後半に入ってから雨が降り出し、2対2のまま延長に入ります。佐々木さんは、「もう、ここまでくればいいや。早くやめたい」という気持ちだったそうです。
ここでも奇跡が起きます。6番バッターがサヨナラヒットを放ち、優勝候補の高松一を3対2で退けたのです。
雨の影響もあったのでしょうか。試合後、エースの田中孝一投手が「熱を出し、寝込んじゃった」といいます。2番手は佐々木さん。「僕が投げていたら負けていましたね」。
しかし、湘南には運が残っていました。準決勝のもう一試合、三岐代表の岐阜対東中国代表の倉敷工(岡山)戦の途中で急に雨が強まり、4回ノーゲームとなってしまったのです。
再試合の結果、岐阜が5対2で倉敷工を破り、決勝にコマを進めるわけですが、湘南の選手たちは、その1日を休養日にあてることができました。佐々木さんによると、「これでエースが回復した」というのです。
湘南は、この岐阜と決勝を戦うことになります。メンバー表を見ましょう。見覚えのある選手がズラリと名を連ねています。
湘南の2番サードは2年生の脇村春夫さん。後の高野連会長です。
対する岐阜の4番は、V9巨人の名捕手・森祇晶さんの兄の森和彦さん。3番の花井悠さんは、卒業後、慶應義塾大学に進み、佐々木さんの先輩となりました。プロでは西鉄に8年間在籍しました。1年生の河合保彦さん、田中照雄さんもプロに進んでいます。
振り返って佐々木さんは語ります。
「岐阜の選手たちが“いざ決戦”みたいな怖い顔付きで球場に入ってきたのに対し、僕らは修学旅行気分。なにしろ決勝戦が始まる前に甲子園の入り口で記念写真を撮っているんだから(笑)。ところが修学旅行気分の方が勝っちゃった。野球ってわかりませんね」
試合は岐阜が2回に2点、3回に1点をとって優位に立ちますが、湘南は4回1点、6回2点、8回2点と小刻みに反撃し、5対3で深紅の大旗を持ち帰ったのです。
1949年、つまり昭和24年といえば、戦後4年目、まだ食糧難の時代です。選手たちは湘南名物“ヘビ飯”で精力を付けたといいます。どんな“料理”だったのでしょ。
「マネジャーが僕らに栄養をつけさせようとして、野生のヘビを獲ってきた。それをご飯と一緒に炊いたというんです。フタの真ん中に穴を開けておくと、ヘビが苦し紛れにそこから顔を出す。頭の部分だけを持って引っ張ると、身がパラパラと下に散る。それを炊き上げたご飯の中に混ぜたと……」
この“名物料理”がいつまで続いたかは定かではありません。
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