甲子園で金属バットが導入されたのは1974年の夏の大会からです。この大会で優勝したのは千葉県代表の銚子商高。2回戦からの登場で、PL学園高(大坂)に5対1、3回戦は中京商高(現中京大中京・愛知)に5対0、準々決勝は平安高(現龍谷大平安・京都)に6対0、準決勝は前橋工高(群馬)に6対0、そして決勝は防府商高(現防府商工・山口)に7対0。圧倒的な強さで深紅の大旗を持ち帰りました。
大会は、3年生エースの土屋正勝さんが、ほとんどひとりで投げ抜きました。金属バットの影響はなかったのでしょうか。
それについて土屋さんは、こんなエピソードを口にしました。
「県予選が始まる前、僕たちは高知県に遠征したんです。土佐高、高知商高、高知高相手の招待試合です。ちょうど金属バットが出始めの頃ですが、この頃の金属バットは性能がよくなかった。へこんだり、ヒビが入ったりしましたよ。それで、攻守交代のたびに相手ベンチに借りにいくんです。“バットが足りなくなったので貸してください”って(笑)」
この大会、銚子商高は4本塁打を記録しています。やはり金属バットの影響は大きかったんじゃないでしょうか。
「確かにウチは4本も打ちました。3年生でキャプテンの宮内英雄が1本、同じく3年生の池永清が1本、2年生で、その後、巨人に入る篠塚利夫が2本。しかし、このうち、金属バットによるホームランは宮内の1本だけ。池永と篠塚が打ったあとの3本は、いずれも木製バットによるもの。金属バットに対する信頼が、まだ低かったんだと思います」
実はこの大会、土屋さんは、それまでの酷使がたたり、満身創痍の状態でした。
「6月の岡山遠征でヒジを痛め、かばって投げているうちに肩も痛めてしまったんです。学内のバレーボール大会で、スパイクを何本も打ったことで、さらに悪化させてしまった。監督の斉藤一之さんに、“信頼を得るのには時間がかかるが、信頼を失うのは一瞬だぞ”と言われたことを、よく覚えています。だから千葉県予選は満足なピッチングができなかった。甲子園には電気治療器を携帯しました」
それでも、銚子商高は前年の夏、あの江川卓擁する作新学院高(栃木)に勝ち、ベスト8にまでコマを進めた強豪です。出場すれば優勝候補に推されるのは当然です。
「いや、そんな欲はなかったですね。まあ1回は勝たなければいけないと思っていたので、初戦でPL学園に勝った時にはホッとしました。もう、あとはいつ帰ってもいいかなと。
一番調子がよかったのは3回戦の中京商高戦。僕はこの試合で7連続三振を奪っているんです。あれだけ気持ちよく投げられたのは1年前に江川さんの作新学院高とやって以来でした。準々決勝の平安高戦も、“相手は名門だから負けても怒られないだろう”とリラックスして投げました。それがよかったのかもしれないですね」
準決勝は同じ関東勢の前橋工高。エースの向田佳元は、後に早大、富士重工業で活躍した好投手です。
「試合前、甲陽高校での練習中、相手のキャプテンが、ウチの宮内に“オマエ、キャプテンのくせに1本もヒット打ってないじゃないか!”と嫌味を言った。それが余程、悔しかったんでしょうね。初回、いきなりホームランですから(笑)」
決勝の相手の防府商高は夏の大会、初出場。下馬評は圧倒的に銚子商高が有利でしたが、前夜、斉藤監督はチームを引き締めようと、次のような訓示を垂れました。
「65年の夏の大会、木樽正明擁するウチは圧倒的に有利と言われながら、決勝で初出場の三池工高(福岡)に0対2で敗れた。初出場で乗ってるチームは恐い。気を引き締めてかかるように!」
0対0の均衡を破ったのは銚子商高。6回裏2死三塁から、一挙6点を奪い勝負を決めました。優勝の瞬間、スタンドを埋め尽くした色とりどりの大漁旗が、選手たちを祝福するように揺れていました。
データが取得できませんでした
以下よりダウンロードください。
ご視聴いただくには、「J:COMパーソナルID」または「J:COM ID」にてJ:COMオンデマンドアプリにログインしていただく必要がございます。
※よりかんたんに登録・ご利用いただける「J:COMパーソナルID」でのログインをおすすめしております。