夏103回、春94回の歴史を誇る甲子園で、初出場初優勝を果たした高校はこれまで32校(夏15校・春17校)あります。しかし、この快挙を2校で達成した監督は、愛媛の宇和島東高(1988年春)と済美高(04年春)を率いた上甲正典さんしかいません。
88年に母校・宇和島東に紫紺の大旗をもたらした上甲さんが、野球部の創部とともに済美の監督に就任したのは2001年秋でした。翌春に行われたグラウンド開きで、1期生として入部してきた選手たちに甲子園の土を掴ませると、こう語りかけました。「これを自分たちのポジションに撒け!必ず夢の舞台に立ってみせような」
とはいえ、チームは文字通りゼロからの出発です。練習は基本中の基本からスタート。県大会の成績は、02年夏=1回戦敗退、秋=3回戦敗退、03年夏=1回戦敗退。甲子園は「夢のまた夢」でした。
しかし、03年の秋、済美は快進撃を見せます。04年のセンバツを目指す県大会1回戦で、この年の公式戦初勝利をあげると、そのまま勢いに乗り大会を制したのです。四国大会でも、準決勝で強豪の高知・明徳義塾高を0対7からひっくり返し、周囲を驚かせます。劇的な勝利の連続は、“上甲マジック”とも呼ばれました。
さらに、上甲さんにはもう一つの代名詞がありました。それは、“上甲スマイル”です。ピンチを迎えても少しも動じず、選手たちにはベンチから常にやさしい視線を向け、笑顔を絶やさないのです。
かつて、その点を本人に尋ねると、「ひきつりながら笑っている時もあるんですよ」と、冗談めかして言い、その真意をこう明かしました。
「“師匠”と慕うNHK野球解説者の池西増夫さんに昔、言われたことがあるんです。“上甲君、とかく日本のスポーツは悲壮感が漂いがちだが、本来、スポーツは楽しくやるもんじゃないのか。監督があれだけしかめっ面をしていちゃダメだよ”と。
確かにそのとおりだなと。選手がグラウンドで戦っているとき、監督ができることと言ったら、彼らが悔いを残さないよう見守ってやることだけなんです。大声を出したところで、あの大歓声の中では通りませんよ。選手たちを安心させ、力を発揮させるには笑顔しかない」
四国王者として臨んだ04年のセンバツ、済美は初戦で、茨城・土浦湖北高を9対0で下して甲子園初勝利をあげると、2回戦では88年春に、宇和島東が初優勝した時の決勝戦の相手・東邦高(愛知)に1対0で競り勝ちます。
準々決勝の相手は、甲子園常連の宮城・東北高。序盤に4点を奪われた済美は、劣勢のまま9回裏の攻撃を迎えます。スコアは2対6。最後の攻撃を迎える前、上甲さんは選手たちを集め、こう言いました。
「ようやった。何も言うことはない。ただ、このまま終わってしまったら何も今後につながらない。最後に1点だけ取って、意地を示そうじゃないか」
東北のマウンドは右肩を痛めていたエースのダルビッシュ有投手ではなく、真壁賢守投手。先発起用に応え、済美打線を8回まで2点に抑えていました。
9回裏、済美は打ちあぐねていたサイドスロー真壁投手から、下位打線の連打で2点を返して4対6。なおも2死一、二塁でバッターボックスには3番・高橋勇丞選手。真壁投手のストレートを叩くと、打球はライトからの強風に乗ってレフトスタンドに飛び込みました。劇画のフィナーレを思わせるような逆転サヨナラ3ランでした。
これで再び勢いに乗った済美は、準決勝でも明徳義塾に7対6で競り勝ちます。決勝戦の相手は愛知・愛工大名電高。雨の影響により、センバツ決勝史上初のナイトゲームとなりました。
6対5と1点リードで迎えた9回裏、福井優也投手が2死二塁のピンチを招きます。ここで上甲さんは、01年の監督就任前に亡くなった夫人の名前を呼び、祈りました。「おい節子、勝たせてくれよ」
福井投手が投じた117球目、快音を発したサードへのゴロを田坂僚馬選手が、冷静にさばき一塁へ。創部3年目の新鋭校が全国の頂点に立ちました。試合中、ずっと上甲さんは節子夫人の形見であるヘアバンドを握り締めていたそうです。
「あの夜の甲子園は星がよく見えました。お月様も出ていました。もう、あの場面は祈るしかないですからね。きっと女房が味方してくれたんでしょう」
早いもので上甲さんが他界してから、この9月で8年がたちます。
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