監督同士、口にこそ出さないものの、秘めたるライバル意識は相当なものがあるようです。名将ともなればなおさらです。
甲子園での勝利数ランキングベスト12(2024年8月21日現在)は次の通りです。
1位 西谷浩一(大阪桐蔭)70勝15敗、勝率8割2分4厘。優勝は春4回、夏4回。
2位 高嶋仁(智辯学園・智辯和歌山)68勝35敗、勝率6割6分。同春1回、夏2回。
3位 中村順司(PL学園)58勝10敗、勝率8割5分3厘。同春3回、夏3回。
4位 馬淵史郎(明徳義塾)55勝36敗、勝率6割4厘。同夏1回。
5位 渡辺元智(横浜)51勝22敗、勝率6割9分9厘。同春3回、夏2回。
同 前田三夫(帝京)51勝23敗、勝率6割8分9厘。同春3回、夏2回。
7位 木内幸男(取手二・常総学院)40勝19敗、勝率6割7分8厘。同春1回、夏2回。
同 阪口慶三(東邦・大垣日大)40勝34敗、勝率5割4分1厘。同春1回。
同 中井哲之(広陵)40勝22敗、勝率6割4分5厘。同春2回。
10位 蔦文也(池田)37勝11敗、勝率7割7分1厘。同春2回、夏1回。
同 小倉全由(関東一・日大三)37勝20敗、勝率6割4分9厘。同夏2回。
12位 尾藤公(箕島)35勝10敗、勝率7割7分8厘。同春3回、夏1回。
野球どころの関西地方の監督がベスト3を占め、4位は、かつて“野球王国”と呼ばれた四国の馬淵さん。関東でのトップは横浜を全国屈指の強豪に育てあげた渡辺さんです。
この渡辺さんが、強烈なライバル意識を燃やしたのが、和歌山の県立高・箕島を春3度、夏1度の全国優勝に導いた尾藤さんでした。
渡辺さん率いる横浜は1973年センバツで初優勝を果たします。2年生エースの永川英植さんは190センチの長身から投げ下ろす重いストレートを武器にしていました。74年のドラフトでヤクルトに1位指名され、入団しますが、プロでは大成しませんでした。
紫紺の大旗を横浜に持ち帰ったにも関わらず、渡辺さんは心穏やかではありませんでした。
「江川卓の作新学院(栃木)と対戦していたら負けていたよ……」
声を潜めて、こう話す関係者が少なくなかったからです。
実際、甲子園出場を決めた秋の関東大会決勝で対戦した横浜は、江川さんに16三振を奪われ、作新学院に0対6で一蹴されていたのです。
迎えた翌年のセンバツ。本命は作新学院、横浜はダークホースという位置付けでしたが、作新学院は準決勝で広島商に1対2で敗れてしまいます。試合前に江川さんは寝違えで首を痛め、牽制すらできませんでした。それが敗因でした。
「もし江川の状態が万全で決勝まで勝ち進んでいたら、横浜は手も足も出なかっただろう」
こうした陰口は渡辺さんの耳にも入ってきます。内心、苛立ちを覚えていたはずです。
渡辺さんがライバル視した箕島の尾藤さんは渡辺さんより2学年先輩です。1970年のセンバツ、27歳の若さで母校を初優勝に導きます。
一度はチームを離れますが、復帰後の79年には石井毅さんと嶋田宗彦さんのバッテリーで史上3校目(当時)の春夏連覇を達成しました。
ピンチになっても笑顔を絶やさない姿は、“尾藤スマイル”と呼ばれ一世を風靡しました。劇的な逆転勝ちが多く、多くの監督の憧れの的でもありました。
渡辺・横浜と尾藤・箕島が相まみえたのが1980年夏の準々決勝でした。横浜のエースは愛甲猛さん、箕島は卒業後、近大に進む宮本貴美久さん。プロ注目の両左腕の対決ゆえ、クロスゲームが予想されました。
この試合、先制したのは横浜です。1回、2回、3回と小刻みに1点ずつ取り、3対2で逃げ切りました。
完投勝ちした愛甲さんは、過日、私にこんな思い出話を披露してくれました。
「あの時は渡辺さん、試合前から“尾藤さんに勝ちたい”と雰囲気が出ちゃってた。尾藤さんがやりたいことをウチが先にやったんです。3回までにスクイズやったり、エンドランやったり……。だから勝った時の喜びは半端じゃなかった。箕島に勝ったことより、尾藤さんに勝ったことの方がうれしかったみたいです」
この年、横浜は初めて夏の大会を制し、渡辺さんは押しも押されぬ「名将」として、揺るぎない地位を獲得したのです。
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