“伝説の大投手”沢村栄治さんとバッテリーを組んだことで知られる山口千万石さんに初めてお会いしたのは1999年の夏です。山口さんは82歳、前年までは全国軟式野球連盟三重県伊勢支部で審判員を務めていました。
山口さんと沢村さんは三重県宇治山田市(現・伊勢市)の明倫小学校時代からバッテリーを組んでいた仲です。同じ大正6年生まれですが、学年は早生まれの沢村さんが一年先輩になりました。
高等小学校卒業後、沢村さんは京都商業(現・京都先端科学大学附属高)に進みました。山口さんもその後を追いました。
山口さんが野球部に入って、まず最初にしたのは、ミットの中からフェルトを全部抜き取ることでした。弾力性を奪い、紙のようにペラペラにしました。それにオイルを塗り、やわらかくなめしました。
なぜそうしたかというと、フェルトの入ったままの弾力性のあるミットでは、沢村さんの快速球を弾いてしまうからです。要するに、ペラペラのミットではさむしか、沢村さんの快速球を捕る方法はなかったのです。
その山口さんに、「最も忘れられない試合は?」と問うと、1933(昭和8)年夏の全国中等学校優勝野球大会の京都府予選決勝をあげました。
相手は宿敵・平安中(現・龍谷大学付属平安高)。1対1の9回裏、平安はサヨナラ勝ちのチャンスを迎えます。2死二、三塁で、打席には後に南海軍・近畿日本・南海ホークスで活躍する岡村俊昭さんを迎えます。
ちなみにこの岡村さん、近畿日本時代の1944年には打率3割6分9厘で首位打者を獲得しています。
カウント2-2。沢村さんは、平安きっての強打者に、ストレートで真っ向勝負を挑みました。沢村さんには“伝家の宝刀”のドロップという武器がありましたが、相手の主砲に対しては敬意を払い、ストレートを投げ込むのが常でした。
それを岡村さんは知っていたのでしょう。あろうことか、沢村さんがボールをリリースするのに合わせ、バットのヘッドをスッと落としました。沢村さんの意表を突くスクイズを敢行したのです。
後にプロで首位打者を獲るほどの打者ですから、バットコントロールが悪かろうはずがありません。コロコロと転がった打球はピッチャーとキャッチャー、サードの中間あたりで勢いを失い、三塁走者は勇躍してホームベースに滑り込みました。
「あんなバカな野球があるか!」
試合後、山口さんは、そう声を荒げました。
山口さんによれば、ドロップさえ投げておけば、赤子の手をひねるように打ち取ることができた。ところが、沢村さんは相手のプライドを重んじて、あえてストレート勝負にこだわった。にもかかわらず平安の主砲は、プライドをかなぐり捨て、“騙し討ち”に打って出た――。山口さんは、それが許せなかったというのです。
山口さんの気持ちは痛いほどわかります。当時の京都商には「卑怯なことはするな」という“暗黙の教え”があったそうです。その一方で岡村さんを攻めるのも酷な気がします。岡村さんはベンチからの指示を忠実に履行したまでで、スクイズでもしなければ沢村さん擁する京都商には勝てない、という切羽詰まった思いがあったのかもしれません。
別れ際、山口さんがポツリと漏らした一言を、私は未だに忘れることができません。
「おそらく栄ちゃんも、腹の中は煮えくり返っていたはずです。でも、あの人は何があってもゴチャゴチャ言わなかった。きっと巨人に入ってからも、戦争に行ってからもそうだったんでしょうね。絶対に他人の批判はしない、他人に迷惑をかけない。そういう男だったんですよ」
沢村さんが東シナ海で戦死を遂げてから、この12月で80年になります。
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