日本ハム、広島、巨人でユーティリティプレーヤーとして活躍した木村拓也さんが亡くなって、この4月で14年がたちました。まだ37歳の若さでした。木村さんは宮崎南高の1年時、1988年夏の甲子園に出場しています。
木村さんが亡くなったのは2010年4月7日のことです。その5日前の2日、巨人1軍内野守備走塁コーチの木村さんは、マツダスタジアムでの広島戦に備え、シートノックを行っていました。
午後5時半過ぎ、ホームベース付近でノックバットを握ったまま、よろめくように倒れた木村さんは、広島のチームドクターらに心臓マッサージを受けたものの意識は戻らず、救急車で広島市内の病院に緊急搬送されました。
CT検査により、「くも膜下出血」と診断され、ICUで治療を受けていた木村さんですが、事態は「悪化の一途」(清武英利球団代表)をたどり、帰らぬ人となってしまいました。
木村さんが卒業した宮崎南高は、宮崎県屈指の県立の進学校です。毎年、国立大学や難関私立大学に、多くの合格者を出しています。巨人で球団代表を務めた清武さんも、同校のOBです。
甲子園には88年の夏、一度だけ出場しています。1回戦の相手は弘前工高(青森)。8対4で勝利し、甲子園初の1勝をあげました。だが2回戦で沖縄水産高(沖縄)に1対5で敗れ、姿を消しました。
木村さんはベンチ入りこそ果たしましたが、出場の機会には恵まれませんでした。ただ県予選準々決勝の宮崎第一高戦では代打ホームラン(2ラン)を放ち、6対1の勝利に貢献しています。
甲子園出場は、1年夏の一回だけでしたが、3年春の練習試合では5打席連続三塁打という珍しい記録をつくっています。当時のポジションはキャッチャー。俊足に加え強肩。九州では、ちょっとは名の知られた存在でした。
進学校ゆえ、卒業後は大学で野球を続けることを希望していました。目指していたのは東京六大学野球の強豪、法政大です。
以下は生前、木村さんに聞いた話です。
「セレクションの数字は全てトップ。一緒にセレクションを受けた選手で、“これはスゴイ”と思ったのは稲葉篤紀くらいでした」
高校時代は「野球一筋だった」という木村さんですが、それでも進学校の出身です。「野球ばかりやってきた連中に勉強で負けることはない」。加えてセレクションでの数字もトップとなれば、普通なら、まず不合格になることはありません。
ところが、です。2日間のセレクションのうち1日目が終わって面接がありました。
「キミ、甲子園出てないよね」とマネージャー。
「いや、1年生の時に出ています」
そう答えた木村さんに、マネージャーは冷たく言い放ちます。
「ウチは甲子園のレギュラー以外、受験資格はないんだよ」
「じゃあ、なんでこんなセレクションをするのですか」
「とにかく明日は、もうこなくていいよ」
こうして六大学への道は断たれてしまったのです。
卒業後、ドラフト外で日本ハムに入団した木村さんは、広島、巨人と渡り歩き、通算1049安打を記録しました。ドラフト外入団選手としては、大成功を収めたと言ってもいいでしょう。
巨人に、のちのメジャーリーガー上原浩治さんが逆指名で入団したのが99年。彼は自らを「雑草」と称していました。
その頃、木村さんは広島に在籍していて、レギュラーの座を争っていました。
06年に巨人に移籍した木村さん、上原さんにこう言ったそうです。
「オマエが雑草やったら、オレは何やねん。もう岩にへばりついたコケみたいなもんやないか」
セレクションの門前払いが“雑草魂”ならぬ“コケ魂”を育んだのです。
データが取得できませんでした
以下よりダウンロードください。
ご視聴いただくには、「J:COMパーソナルID」または「J:COM ID」にてJ:COMオンデマンドアプリにログインしていただく必要がございます。
※よりかんたんに登録・ご利用いただける「J:COMパーソナルID」でのログインをおすすめしております。