プロ野球史上最強のバッターは誰か? この設問に対し、「落合博満」と答える野球関係者は少なくありません。三冠王を3度も獲得しているバッターは後にも先にも落合さんだけです。しかし、高校時代の実像は謎に包まれたままです。
落合さんは男鹿半島の付け根の部分にあたる秋田県南秋田郡若美町(現男鹿市)の出身です。高校は秋田工高に進みますが、退部と復帰を8回も繰り返したため、どんな選手だったのか、はっきりしません。
そこで自著「なんと言われようとオレ流さ」(講談社)をあたってみることにしました。
<一年の四月から、けっこう打ったから、「高校野球とはこんなもんか。これなら練習なんかしなくていいや」と思っちゃったんだ。甲子園に出ようとか、そういう気持ちもまるっきりなかった。母校のためにとかで無理に練習させられるなんて、誰でもイヤなはずだ。ともかく、なんにもしないでポッと頂点に立ってしまった。確か、三年間の通算打率は4割近く打ってると思う。
いきなりレギュラーだったから、そりゃもう、風当たりなんか人一倍強かった。上級生には毎日ぶん殴られた。だいたい、オレが練習に行かなくなった一因もそこにあるんだ。野球部の封建的な体質がたまらなかった。だって、たかが一、二年早く生まれただけで、なんでそいつらにぶん殴られなきゃいけないの。>
退部と復帰を8回も繰り返した背景には、軍隊式の野球部の封建的な体質があったようです。
自著によると、それでも打撃の能力はズバ抜けていたようです。
<高校のころからぶっつけ本番には強かった。三年の春の地区大会準決勝で秋田南高と対戦したときのこと。九分九厘相手が勝っていた試合をオレのホームランでひっくり返したんだ。今みたいなライト方向へ飛んだ一発だった。
こんなこともあった。同じく春の全県選抜大会初戦の能代高校戦。オレの打った球はピッチャーの頭の横をかすめ、センター方向へ飛んだ。フェンスまでは120メートルあったが、打球はそのフェンスのネットにめり込んじゃった。しかも当時はまだ木のバットだったから……。>
そんな落合さんと高校時代に対戦したピッチャーから以前、話を聞いたことがあります。秋田市立高から法政大に進み、社会人の熊谷組、TDKで活躍した船木千代美さんです。
06年の都市対抗野球大会ではTDKを率い、東北に初の黒獅子旗をもたらせています。学年は落合さんの方がひとつ上でした。
「僕は高校時代、ほとんど打たれてないですよ」
開口一番、船木さんはそう言いました。
「だって高校時代、落合はほとんど練習していなかったですもん。だから高校時代は大したことなかった。ピッチャーもやっていたけど、あまり印象に残っていないですね」
実は落合さんと船木さんは同じ若美町の出身で、小学校の頃から互いに実力を認め合うライバルでした。
「今でいう学童野球ですよ。小学生や中学生の頃はいい勝負だったと思います。軟式野球ですけどね」
高校卒業後、船木さんは法政大へ、落合さんは東洋大へ進学します。しかし、落合さんは、またしても野球部の封建的な体質に嫌気がさし、わずか3カ月で辞めてしまいました。
<野球部の体質があまりにも古くさく、先輩を立てるやり方がどうにも気に入らなかったんだ。オレよりヘタクソなヤツが、学年が一つ二つ上というだけでいばりちらす。冗談じゃないよ。>(前出・自著より)
船木さんと落合さんが再会するのは東芝府中のグラウンドでした。熊谷組に進んだ船木さんの前に現れたのが落合さんでした。
再会するなり落合さんは、こう告げました。
「なぁ船木、オレにあの変化球を投げたら打たれるぞ」
船木さんのウイニングショットはスライダーでした。高校時代、一度も打たれたことのない変化球を、落合さんは覚えていたのです。
落合さん一流の駆け引きと知りながら、船木さんは注文どおりスライダーを投げました。
次の瞬間、快音を発した打球は一直線に右中間方向に飛び、スタンドに突き刺さりました。
「アイツ、変わったな……」
船木さんは、そうつぶやきました。
「人に見られないところで黙々と練習していたんでしょうね。落合とは、そういうヤツですよ」
その後、グラウンドのライト後方に張ってあった10メートルのネットは、さらに6メートル分追加されました。民家の屋根や窓ガラスを割るなど近隣に迷惑をかけないためです。そしてそれは、いつしか“落合ネット”と呼ばれるようになっていったのです。落合博満、プロ入り前夜の逸話です。
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