もし、1970年の“黒い霧事件”で永久追放処分(2005年に解除)を受けなければ、200勝はおろか、300勝も不可能ではなかったのではないか。こう言われているのが元西鉄の池永正明さんです。下関商高(山口)卒業後に入団してから5年で99勝(62敗)をあげています。1年20勝ペースです。この池永さん、甲子園には3度出場し、2年時の63年センバツで優勝、同年夏の選手権では準優勝を達成しています。果たして、高校時代はどんなピッチャーだったのでしょう。尾道商高(広島)時代に対戦経験のある小川邦和さん(巨人、3Aバンクーバー・カナディアンズ、2Aホリヨーク・ミラーズ、広島)の証言を元に検証してみたいと思います。
尾道商高のエースだった小川さんが、池永さん擁する下関商高と対戦したのは、ともに高校3年春の中国大会です。前年のセンバツでは下関商が優勝、この年のセンバツでは尾道商が準優勝を果たしていました。
当時の中国地区はレベルが高く、同学年には高橋一三(北川工高・広島)、星野仙一(倉敷商高・岡山)、山本浩二(甘日市高・広島)、1学年下には森安敏明(関西高・岡山)、平松政次(岡山東商高・岡山)、松岡弘(倉敷商高・岡山)ら、超高校級と呼ばれるピッチャ-がひしめいていました。
小川さんによると、その中でも「池永は別格だった」と言います。
<試合は4-1で勝ち、その大会で僕らは優勝したが、その喜びにもまして池永の凄さが頭からこびりついて離れなかった。いくら努力しても、こいつとは素質が違う、かなわないと観念せざるをえなかった。
わけても一番驚いたのがスライダーである。それまでスライダーという球を見たことがなかった僕は手も足も出ない。ゴルフでいうと、ちょうどシャンクした感じで急に直角にキュッと曲がる。キャッチャーが捕ったこと自体、僕には不思議で仕方なかった>(自著『ベースボール放浪記』芸文社、筆者プロデュース)
当時、池永さんは“藤本英雄2世”と呼ばれていました。藤本さんは主に巨人で1942年から55年にかけて活躍したピッチャーで、スライダーを武器に通算200勝87敗という記録を残しています。また50年6月28日には、西日本相手にプロ野球史上初の完全試合をなしとげています。367試合に登板し、通算防御率1.90という数字が、このピッチャーの偉大さを物語っています。
再び小川さんです。
<「すごい球だ。あれ、何っていうボールだろう。どうやってああいう球を投げれるんだろう」帰ってきてフトンのなかに入っても、そのことばかりが気になって寝つくことができない。そのときやっと藤本英雄の再来という意味がわかった。藤本さんはスライダーという球を武器にカムバックした人。「ああ、あれを藤村富美男も小鶴誠も打てなかったのか」とフトンのなかでひとりごちた。
今の時代、高校生のピッチャーでも楽にスライダーを投げることができる。僕に言わせたら「笑わせんな」だ。あれはスライダーではなく、スライダーもどき。池永のスライダーとは似て非なるボールなのだ。
僕はプロに入ってからも、池永以上のスライダーを見たことがない。今の人がいうスライダーは、ズライダーだと思っている。まあ稲尾(和久)さんのスライダーは、それ以上にホップしてきたという話だが……>(同前)
加えて、池永さんはコントロールも抜群だったと言います。スライダーとシュートは定規で計ったようにコーナーぎりぎりにピシャリと決まり、キャッチャーはミットを動かす必要がありませんでした。
では技巧派かといえば、全くそうではなく小川さんによると<高目のボールは50センチくらいホップしているように感じられた>(同前)と言います。断っておきますが、プロに入ってから成長したのではなく、高校時代からこういうピッチングができた、すなわち池永さんは高校時代に完成していたというのです。甲子園で準優勝投手となり、プロでも活躍した小川さんが<どうあがいてもかなわぬ力量と素質への嫉妬心>(同前)を感じた、というのですから、超高校級揃いの同世代の中でも別格中の別格だったということでしょう。
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