奈良の天理高校は春25回、夏29回の甲子園出場を誇る近畿地区屈指の名門校です。優勝も夏が2回(86年、90年)、春が1回(97年)。プロ野球にも通算567本塁打の門田博光さん、福岡ソフトバンクの監督を務めた藤本博史さんら、多くの人材を輩出しています。今回は86年夏、天理が初めて甲子園優勝を果たした際のエース本橋雅央さんに話を聞きました。
――この大会、本橋さんは右ヒジを痛めながらエースの重責を果たし、決勝の松山商(愛媛)戦では完投勝ちを収めました。右ヒジを痛めたのは、いつ頃ですか?
本橋 ヒジに違和感を抱いたのは、この年の春の近畿大会準決勝の東洋大姫路(兵庫)戦です。相手ピッチャーは、後にメジャーリーガーとなる長谷川滋利。ただし体が温まると痛みがやわらぐこともあり、そこまで深刻ではなかったんです。
――では深刻な事態を迎えたのは?
本橋 甲子園初戦(2回戦)の新湊(富山)戦です。新湊はこの年のセンバツで“新湊旋風”を巻き起こし、ベスト4に入っていました。
僕は8回にヒットで出塁したのですが、この回のウチの攻撃が長引いた。で、肩慣らしもせずに9回のマウンドに立つと右ヒジに強い痛みが走った。“あれ、おかしいな……”と思っているうちに4点も取られてしまった(試合は8対4で勝利)。
続く3回戦の米子東(鳥取)戦も7対2で勝ったのですが、ヒジの内側に激痛が走り、小指までしびれるような状態でした。
――準々決勝の相手は佐伯鶴城(大分)でした。
本橋 朝のウォーミングアップで橋本武徳監督が「(ヒジは)どうだ?」と聞くので、正直に「厳しいです」と答えました。この試合は2年生の緑川博之に任せ、4対2で勝ちました。
――準決勝の相手も、また九州勢の鹿児島商でした。
本橋 ヒジに痛みが出て以降、東大阪の病院で痛み止めの注射を打ってもらっていました。先生には「もう投げん方がいい」と言われたのですが、「何とか痛みだけ止めてください」と。注射針がヒジの奥にまで入ると痛くて悲鳴を上げていましたよ。
しかし、この注射の甲斐もなく、鹿児島商戦は5回でマウンドを降りました。幸い打線が好調で8対6で打ち勝ちました。
――決勝の相手は四国の名門、松山商(愛媛)。夏の大会、5回目の優勝を狙っていました。
本橋 注意していたのはトップバッターの水口栄二です。彼はこの試合で大会最多安打記録(19安打)を達成するのですが、1回、いきなりライト前にヒットを打たれ、4番のタイムリーで先制されました。
――松山商のエース右腕・藤岡雅樹はスリークォーターから素晴らしく切れのあるスライダーを投げていました。
本橋 スライダーならスライダー、真っすぐなら真っすぐと各自、狙い球を決めようというのがウチの作戦でした。先に1点を取られましたが、ウチには後にプロに進む山下和輝、中村良二といった強打者がおり、1点なら何とかなると思っていました。
――4回表、天理は松山商・藤岡投手の2暴投などもあり、2対1と逆転します。そして5回裏、この試合、最大のヤマが訪れます。1死一、三塁で松山商の打者は2番の堀内尊法。左打者です。松山商ベンチのサインはスクイズでした。
本橋 カウントは2ボール1ストライクでした。2年生キャッチャーの藤本三男のサインはウエスト。ジャンケンのグーからパーに変えるのがウエストのサインだったんですが、そのパーが力強い。最初は、そのサインに首を振ったのですが、藤本はサインを変えない。“こいつ、相当自信あるんやな”と根負けして外角に大きく外したら、その通りスクイズでした。
――2年生キャッチャーのファインプレーですね。
本橋 藤本はずっと松山商のベンチを見ていた。ここはスクイズで来る、という彼なりの根拠があったんでしょうね。もし、あそこでスクイズを決められていたら、5、6点取られていたかもわからない。本当にあそこが最大のヤマでした。
――試合は3対2で天理。右ヒジの痛みは?
本橋 それがこの試合に関しては、最後まで痛み止めが効いていました。アドレナリンが出ていたのか、特に7回からは全く痛みを感じなかった。最後は三塁ゴロでゲームセットとなったのですが、もう信じられない気持ちでしたね。投げ合った藤岡とは今も友だち付き合いをしています。家も近所なんです。不思議な縁ですね(笑)。
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