
日本人メジャーリーガー第1号といえば、1964年と65年の2シーズン、サンフランシスコ・ジャイアンツでプレーしたマッシー村上こと村上雅則さんです。日米通算108勝39セーブをあげた村上さんですが、高校(法政二)時代の話は、あまり知られていません。どんな高校球児だったのでしょう。
法政二(神奈川)は、春2回、夏9回の甲子園出場経験を持つ関東屈指の名門です。57年から61年にかけては、5年連続で神奈川県大会を制し、夏の甲子園出場を果たしています。60年夏と61年春には、戦後初の夏春連覇を達成しました。
夏春連覇の立役者は、後に巨人でⅤ9に貢献する柴田勲さんです。巨人では、主に「1番センター」として活躍し、通算2018安打、盗塁王に6度輝いた柴田さんですが、法政二では切れのいいストレートとスライダーを武器にする超高校級のピッチャーでした。3度に及ぶ尾崎行雄さん(浪商・大阪)との投げ合いは、今も語り草です。
柴田さんの1年後輩が村上さんです。柴田さんは1944年2月8日生まれ、村上さんは同年5月6日生まれ。わずか3カ月遅く生まれてきただけですが、後輩は後輩です。
当時は今のように1試合でピッチャーを何人も使うような時代ではありません。柴田さんが先発すると、村上さんに出番が回ってくることは、ほとんどありませんでした。それでも紫紺の大旗を手にした61年のセンバツで、2年生の村上さんは1度だけマウンドを踏むチャンスがありました。
「準決勝の平安(京都)戦で2イニングだけ投げてゼロに抑えたの。試合は10対1でウチが勝ったかな」
同年夏、法政二には夏春夏の3連覇がかかっていました。決論から言えば、準決勝で尾崎さん擁する浪商に、法政二は2対4(延長11回)で敗れてしまいます。残念ながら村上さんに出番はありませんでした。
「あの頃は、オレも随分よくなっていたの。一方、柴田さんの肩は、もうボロボロでね。僕には投げるチャンスがあったんです。ところが入場行進の後かな。監督が“今日はピッチング練習だけやっておけ!”と言うので大学のグラウンドでやっていた。残り3球くらいになって、“1カ所練習で投げろ”となった。そこで、後に大洋に進む的場(祐剛)さんのピッチャーライナーを受け、指を骨折してしまった。それでもうダメだと……」
3年春の県大会で優勝した法政二は、夏の神奈川県大会の優勝候補筆頭でした。ところが、またしても村上さんをアクシデントが襲います。大会の3週間前になって、急に腹痛に見舞われてしまったのです。
「腹がギューンと痛くなって、もう立っていられない。薬を飲んでも、全く効かない。病院に行くと“これは内緒にしときましょう”と。もしかすると赤痢かなんかだったんじゃないかな。とにかく、何も食べられない。1週間、まるまる絶食で、2週間目に入って、やっと動けるようになった。二高のラグビー場の上の芝生を、ひとりで走ってましたよ」
どうにか県大会の開幕には間に合ったものの、本調子には程遠い内容でした。
「準決勝の慶応戦。猛暑ということもあって、全然、体に力が入らない。ひざがガクンガクンと揺れちゃって。それでバッティングピッチャーみたいに打たれちゃった」
調べてみるとスコアは1対5。不完全燃焼のまま、村上さんの短い夏は終わってしまいました。
「だから高校野球といっても、オレの場合、いい思い出が全然ないんだよ」
しかし、高校時代に使わなかった運が、その後に残っていました。高校卒業後、南海ホークスに入団した村上さんは野球留学のため64年に渡米、マイナーリーグでの活躍が認められ、同年9月1日、日本人として初めてメジャーリーグの試合に出場したのです。緊張を解きほぐすため、村上さんは坂本九さんの「上を向いて歩こう」(スキヤキソング)を口ずさんでマウンドに上がったといいます。今から51年前の話です。
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