プロ野球史上最強打者のひとりに数えられる中西太さんは、身長174センチのずんぐりむっくりした体型です。それでいて打球の飛距離は規格外で、1953年に西鉄ライオンズの本拠地・平和台球場で放ったホームランは「推定160メートル」と言われています。しかし今回の主人公は、その中西さんではありません。“中西2世”と呼ばれた東京ヤクルトスワローズ打撃コーチ杉村繫さんの話です。
杉村さんが高知高の「3番・サード」として甲子園を制したのは75年のセンバツです。杉村さんが「中西2世」と呼ばれたのには、いくつか理由がありました。
まず、ひとつは同じようなずんぐりむっくりの体型。身長は中西さんが174センチ、杉村さんは171センチ。小柄とまではいいませんが、当時の高校野球では平均的な身長でした。
二つ目は、同じサードというポジション。中西さんというと、“怪童”のニックネームからもわかるように、その強打ばかりが喧伝されていますが、守備も巧く、また俊足でした。プロに入ってセカンドなども守った杉村さんですが、高校時代は「強肩強打のサード」として、その名が通っていました。
三つ目は、同じ四国の出身ということです。中西さんが香川の高松第一高、杉村さんが高知高。どちらも四国の名門です。中西さんは49年夏、優勝した湘南高(神奈川)に準決勝で2対3で敗れていますが、1年生ながら、その豪打は全国に鳴り響いていました。
杉村さんにとって75年の春は、74年春、夏に続く3回目の甲子園でした。
高知も“西の横綱”として優勝候補と見なされていましたが。同校よりも評価が高かったのが“東の横綱”の東海大相模高(神奈川)です。前年の夏、同校は準々決勝まで進出しましたが、その中心が1年の原辰徳さん、津末英明さんでした。その2人が3、4番を組み、エースはサウスポーの同級生・村中秀人さん。ピンストライプのユニホームが都会的なムードをかもし出していました。監督は原さんの父で65年夏に三池工高(福岡)を、70年夏に東海大相模を日本一に導いている名将の貢さんです。
決勝は下馬評通り、東西の両横綱の対決となりました。先制したのは東海大相模です。高知の先発はサウスポーの山岡利則さん。3番の原さんが、いきなり左中間にアーチを架けたのです。さらに得点を追加し、3対0とリードを広げます。
そこから1点ずつ取り合い、東海大相模の4対1で迎えた3回表、高知は杉村さんの右中間への三塁打で2点を返します。3対4。5回にも杉村さんのセンター前タイムリーが飛び出し、4対4の同点に。7回にも1点を加え勝ち越しますが、東海大相模は8回裏、原さんの右中間三塁打でチャンスをつくり、5対5の同点に追いつきます。
東西の両横綱、一歩も譲らず延長へ。12回裏、ランナーを二塁に置き、津末さんのライト前ヒットが飛び出しますが、ライト松生栄司さんの好返球でタッチアウト。13回表、ピンチを救った松生さんの三塁打で口火を切った高知は、杉村さんの球足の速い左中間三塁打で1点を勝ち越します。さらに四球とスクイズにタイムリーもからめ、この回一挙5点。10対5で高知が初めて紫紺の大旗を手にしました。
当時、私は高校1年生でした。ライナーやフライならともかく、杉村さんの三塁打はゴロで内野手の間を抜いたもの。まさに超高校級の当たりでした。あの一打でドラフト1位を確定させた、と言っても過言ではありません。
プロでは通算4本塁打。中西さんにはなれなかった杉村さんですが、打撃コーチとしては横浜ベイスターズ時代に内川聖一選手、東京ヤクルトでは山田哲人選手や村上宗隆選手を育てるなど、高い評価を受けています。
打撃の名伯楽と言えば、真っ先に名前をあげなければならないのが若松勉さん、掛布雅之さん、岩村明憲さんらを指導した中西さん。その意味で高校時代の杉村さんに冠せられた“中西2世”の称号は、間違いではなかったということです。
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