二宮清純コラムオリンピック・パラリンピック 奇跡の物語
~ビヨンド・ザ・リミット~
2021年7月20日(火)更新
96アトランタ、悪夢の銀メダル
谷亮子、“掟破り”の16歳に屈す
オリンピックの申し子と言えば、柔道女子の谷亮子(旧姓・田村)さんの名前をあげないわけにはいきません。1992年バルセロナ、96年アトランタ、00年シドニー、04年アテネ、08年北京と5大会連続で出場し、金メダル2つ、銀メダル2つ、銅メダル1つを胸に飾っています。
北朝鮮の秘密兵器
「こんなことがあるのか……」。悪夢でも見ているような気になったのが96年アトランタ大会です。
20歳で迎えた2度目のオリンピック、谷さんは本命中の本命でした。最大のライバルと目されていたのがアマリリス・サボン選手(キューバ)。バルセロナ大会では1回戦で谷さんとあたり、判定で敗れています。
雪辱を期してアトランタの畳に上がったサボン選手でしたが、やはり谷さんに背負い投げで一本負け。この時点で谷さんの金メダルを疑う者はいなかったでしょう。
なにしろ決勝の相手は北朝鮮のケー・スンヒ選手。ワイルドカードで勝ち上がってきたノーマークの16歳でした。
驚いたことにケー選手は柔道着を左前に着ていました。これは完全な“掟破り”ですが、当時は反則ではありませんでした。
いつもと勝手の違う谷選手はケー選手の道着を掴むことができず、組み手争いで不利な立場に置かれました。
一方のケー選手は10センチ以上の身長差をいかし、谷選手の奥襟を狙ってきました。上から抑え込み、谷選手自慢のスピードを殺そうとの作戦です。
残念ながら試合は谷選手の素早い動きを封じたケー選手のペースで進みました。形成逆転を狙って終盤に繰り出した払腰を小外刈りで切り返され、効果をとられると、さらに焦りが募りました。直後には指導までとられ、判定で敗れたのです。
試合からしばらくたって、私は谷選手にインタビューしました。相手の“掟破り”について聞くと、「全く想定していなかった」と答え、こう続けました。
「でも、あの時の私の実力では金メダルを獲るのはまだ早かったような気がします。相手の方が実力が上でした」
“滑る畳”の誤算
油断もあったといいます。
「普通にやれば勝てる相手だと思っていました」
ところが、先述したように奥襟をがっちり掴まれてしまっては、動くに動けません。
残り時間1分。
「もう行くしかない」
そう覚悟を決めて前に出た谷選手に待っていたのはケー選手の返し技でした。畳の上で足を滑らせてしまったのも誤算でした。
「アトランタの畳は滑りやすかった。これは動きのいい彼女にとっては有利だと思っていたんだが……」
大会後、日本の柔道関係者から、そんな話を聞きました。フットワークの軽い谷さんにとってアドバンテージだと思っていた“滑る畳”が不利に働いてしまうとは……。これがオリンピックの恐ろしいところです。
試合後、簡単に谷さんは結果を受け入れることができませんでした。「悪い夢を見ているんじゃないか」。そう思って頬をつねったりもしたそうです。
選手村に帰り、谷さんは恐る恐るメダルの入った箱を手にとりました。そして、ゆっくりとフタを開けました。谷さんが密かに期待していたのは、まばゆいばかりの輝きでした。
だが、しかし——。
「目に入ったのは鈍い光でした。そこにあったのはやっぱり銀メダル。あぁ、本当に負けてしまったんだなぁ……。しばらくの間、何もする気が起こりませんでした」
オリンピックの借りは、オリンピックでしか返せないと言います。谷さんが、やっと金メダルを胸に飾ってみせたのは00年シドニー大会。初めて出場したバルセロナ大会から8年がたっていました。
二宮清純