二宮清純コラムオリンピック・パラリンピック 奇跡の物語
~ビヨンド・ザ・リミット~
2021年7月23日(金)更新
84ロス、胸を張れなかった銅メダル
金を背負わされた女子バレーの宿命
かつて、この国において女子に最も人気のあるスポーツはバレーボールでした。それはオリンピックの影響です。1964年東京大会と76年モントリオール大会、2度金メダルを獲得したことで人気に火がつきました。
「一番いい色のメダル」
女子バレーボールは64年の東京大会で初めてオリンピックの正式競技となりました。この記念すべき大会で金メダルを獲得したわけですから、列島が歓喜に包まれたのは言うまでもありません。
決勝のソ連戦の視聴率は実に66.8%(ビデオリサーチ調べ。関東地区)。この数字はスポーツ中継としては歴代最高です。
日本に金メダルをもたらした“東洋の魔女”を率いた大松博文監督が出版した『おれについてこい!』(講談社)はベストセラーになりました。
テレビドラマやアニメに目を移すと『サインはV』『アタックNo.1』が高視聴率を誇り、それに影響を受けた少女がたくさん現れます。84年ロサンゼルス大会で銅メダルを獲った代表チームのキャプテン江上(現・丸山)由美さんも、そのひとりです。
80年モスクワ大会、西側諸国はソ連のアフガニスタン侵攻を理由に参加をボイコットしました。日本もそれに追随しました。
そのため84年ロサンゼルス大会は日本にとって“8年越しの連覇”を目指す大会となりました。選手たちのプレッシャーは、いかばかりだったでしょう。
江上さんは語ります。
「実はオリンピックが始まる前から私たちに金メダルを獲るだけの力がないのはわかっていました。何パーセントかは(金メダルも)あるかなと。だから表向きには“一番いい色のメダルを狙う”と言っていたのです」
結果は銅メダル。準決勝で中国にストレート負けを喫した日本は、3位決定戦でペルーに3対1で勝利したものの、“一番いい色のメダル”には届きませんでした。
第一声は謝罪
「すみませんでした……」
銅メダル獲得後の江上さんの第一声がこれです。他の選手たちにも笑顔はありませんでした。
金メダルを獲れなかったとはいえ、堂々の銅メダルです。余談ですが、アテネ五輪で銅メダルを獲得した野球日本代表の中畑清監督代行は、「銅は“金と同じ”と書く」との“名言”を口にしました。
もちろん金メダルと銅メダルは同じではありませんが、謝る必要はないでしょう。
江上さんは「銅メダルはもらったものの、何かしっくりこなかった」と振り返り、こう続けました。
「銅メダルをもらっても誇らしい気分ではなかったですね。私の場合、隠しはしませんでしたが、表彰式が終わったら、すぐにメダルを首からとりました。
オリンピック後、メダルは実家のたんすの引き出しの中に保管していましたが、あまり見ませんでしたね。見たくないというより、先に進もうという意識の方が強かったのかもしれません」
江上さんの話を聞いていて思い出したのが2019年ラグビーW杯日本大会の決勝戦です。南アフリカに敗れたイングランドの選手たちが銀メダルを拒否する姿に批判が集まりました。イングランドの選手たちにとって銀メダルは望んだものではなかったのでしょう。
結びに、英紙デイリー・メールに掲載されたコラムの一文を紹介します。
<エリートのプレーヤーたちが最後のハードルを飛び越えるのに失敗した時、彼らがどんな思いになるかを理解する人々はわずかしかいない>(ジェームズ・ハスケル記者)
二宮清純