二宮清純コラムオリンピック・パラリンピック 奇跡の物語
~ビヨンド・ザ・リミット~
2022年2月15日(火)更新
羽生結弦、“傷だらけ”の4A
上杉謙信「天と地と」を再現
五輪3連覇のかかった北京冬季五輪、フィギュアスケート男子シングルの羽生結弦選手は不運に見舞われ、残念ながら4位に終わりました。しかしISU(国際スケート連盟)公認大会で史上初めてクワッドアクセル(4回転半ジャンプ)が認められるなど、さらなる高みを目指して戦い続ける姿には、金メダルを超えた価値がありました。
「僕、悪いことしたかな」
アクシデントに見舞われたのは2月8日のショートプログラム(SP)でした。冒頭で予定していた4回転サルコウが、あろうことか、まさかの1回転に。羽生選手ほどの名手が、こんなところでミスを犯すわけがありません。
「完璧なフォーム、完璧なタイミングで跳んだ」にもかかわらず、「トウジャンプの穴」にはまってしまったというのです。
スコアは95.15点。「正直言って、なんか僕悪いことしたかな」と羽生選手。そうとでも言わなければ、やってられなかったでしょう。
人生には理不尽や不条理が付き物です。「神様は乗り越えられない試練は与えない」と励ます人もいますが、よりによって五輪でこの仕打ちはないでしょう。仮に私が同じ立場なら「神様を張り倒してやりたい」という衝動に駆られるはずです。
しかし、そんな気持ちはおくびにも出さず「僕、悪いことしたかな」と苦笑して、その場を取り成す羽生選手の立ち居振る舞いは王者そのものでした。
頭の下がる思いがしたのが14日の記者会見。羽生選手は「ショートプログラムは氷にひっかかって悔しかったけど、滑りやすく跳びやすくて気持ちのいいリンクでした。この場を借りて感謝します」と真っ先に礼を述べたのです。
周囲を気遣ってのコメントだったように感じられました。なかなかできることではありません。
SPから2日後のフリースケーティング。冒頭で披露したクワッドアクセルは着氷に失敗し、氷に叩きつけられたものの、すぐに立ち上がって演技を続けました。その後の4回転サルコウも失敗しました。
「首を渡すか、首をとるか」
ところで楽曲に選んだNHK大河ドラマの『天と地と』は、戦国武将の上杉謙信を描いたものです。当時、小学4年生だった私は、このドラマをよく覚えています。上杉謙信役が、当時27歳だった石坂浩二さん。偶然にも今の羽生選手と同じ年齢です。ライバルの武田信玄役が高橋幸治さん。クライマックスの川中島の合戦(第四次)には、ドラマながら息をのむほどの迫力がありました。
白馬にまたがった謙信役の石坂さんが、単騎、信玄役の高橋さんに斬りかかるのです。太刀を浴びせる謙信、それを軍配で防ぐ信玄。「首を渡すか、首をとるか。ふたつにひとつだ」との石坂謙信の言葉は耳の奥深くに残っています。
羽生選手も川中島での謙信と同じ心境だったのではないでしょうか。羽生選手にとってのリンクは戦場(いくさば)、命をやり取りする場所なのです。
それは彼の「何回も何回も体を打ち付けて、死ににいくジャンプ」という言葉からも感じ取ることができました。古傷を抱えた右足首はもう限界を超えていました。それでもクワッドアクセルに挑んだ羽生選手、まさに“軍神・上杉謙信”が乗り移ったかのようでした。
記者会見では『天と地と』についても語る場面がありました。
「4回転半ジャンプ、クワッドアクセルはできれば降りたかったのが正直なところですが、上杉謙信というか、自分が目指していた『天と地と』という物語にふさわしい演技でした」
こんな言葉を聞けば、草葉の陰で上杉謙信も、きっと喜んでいることでしょう。「首を渡すか、首をとるか。ふたつにひとつだ」。そんな思いで、薄情な氷に向き合っている青年が、この国には、いや、この地球上にはいるのです。
二宮清純