二宮清純コラムオリンピック・パラリンピック 奇跡の物語
~ビヨンド・ザ・リミット~
2022年1月14日(金)更新
02ソルトレイクシティの躍動
本田武史「人生最良の時間」
アスリートがしばしば用いる言葉に「ゾーン」というものがあります。一般的にはリラックスしていながらも、神経が研ぎ澄まされている状態を指します。「無我の境地」とでも言えばいいのでしょうか。フィギュアスケーターの本田武史さんが「ゾーン」を体感したのは2002年ソルトレイクシティ冬季五輪での男子シングル・ショートプログラム(SP)でした。
ロシアの2強相手に
本田さんが初めて出場した五輪は1998年2月に行われた長野大会です。まだ16歳でした。
「まだ高校2年生。何もわからないような状態でした」
本田さんは、こう振り返ります。前年11月のNHK杯で痛めた右足首の状態は完調から程遠く、さらに悪いことに五輪前の4回転ジャンプの練習で足首をひねるアクシデントに見舞われました。
そうしたこともあってSPで転倒し、18位と大きく出遅れてしまいます。フリースケーティングで晩回したものの、総合15位という結果に終わってしまいました。
不振の原因はケガだけではありませんでした。
「実は僕、長野の時は選手村に入らず、別の合宿所のようなところにいました。集中力を高めるためにそうしたのですが、逆にひとりでいることでいろいろと考え込んでしまった……」
長野での反省を元に、20歳で出場した02年のソルトレイクシティ大会では、自ら進んで選手村に入りました。
「これが良かった。他の選手たちと一緒にいることで、安心感がありました。夜、興奮と緊張で眠れない時には、スピードスケートの選手とジョギングをしたりもしました。これは気分転換につながりました」
当時、男子フィギュアスケートは2人のロシア人スターがいました。世界選手権3連覇(98~00年)のアレクセイ・ヤグディン選手と01年世界選手権王者のエフゲニー・プルシェンコ選手です。まずSPで本田さんは4回転トウループ-3回転トウループのコンビネーションジャンプ、3回転アクセルを成功させ、ヤグディン選手に次ぐ2位につけました。プルシェンコ選手が転倒するミスがあったとはいえ、メダルへの期待が一気に高まりました。
「ゾーン」の7分間
「まさかプルシェンコ選手が転倒するなんて思ってもみなかった。SPで2位になるとは驚き以外の何物でもありませんでした」
そう前置きして、本田さんは続けました。
「それにしても、あの時のSPは自分でも神がかっていたと思います。いわゆるゾーンに入っているような状態。“絶対に自分は失敗しない”という感覚がありましたから……」
2日後、メダルをかけたフリー。本田さんは序盤の4回転トウループの着氷でバランスを崩し、ステップアウトするミスを犯してしまいます。
本田さんによると「跳ぶ時に体が外にブレていく感じ」がしたそうです。跳び上がった瞬間、「あっ!」と思ったそうですが、時既に遅しでした。
この、ほんのちょっとしたミスが響き、プルシェンコ選手、ティモシー・ゲーブル選手(ロシア)にも抜かれ、惜しくもメダル獲得はなりませんでしたが、4位はフィギュアスケート男子で日本人が記録した最高の順位でした。
「メダルを逃したのは悔しい思い出ですが、3位のゲーブル選手は3つの4回転を成功させているんです。それに自分は3回転-3回転のところが3回転-2回転になってしまった。ただし、プルシェンコ選手やヤグディン選手と同じグループで演技したのはいい経験になりました。緊張したというより、それまで一度も経験したことのない空気の重さを感じましたよ」
そして、最後に本田さんはこう付け加えました。
「あの時の(SPとフリー合わせた)7分間は、人生で一番長く感じられました。今でも思い出します。“ズッシリと長くて重い時間だったな”と……」
人間にとって時間は有限な資源です。本田選手にとってソルトレイクシティでの7分間は二度と手にすることのできない“人生最良の時間”だったのかもしれません。
二宮清純