二宮清純コラムオリンピック・パラリンピック 奇跡の物語
~ビヨンド・ザ・リミット~

2021年9月3日(金)更新

車いすバスケ、花開いた日本モデル
元Jリーガー京谷和幸HCの戦術

 パラリンピックで初のベスト4進出を果たした車いすバスケットボール日本代表ヘッドコーチの京谷和幸さんは、元Jリーガーという異色の経歴の持ち主です。「ディフェンス」「ハードワーク」「トランジション(攻守の切り換え)」――三つのコンセプトに京谷イズムが集約されています。

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現役時代はローポインター

 京谷さんが前ヘッドコーチの及川晋平さん(現監督)から「手伝ってほしい」と頼まれ、代表チームのコーチに就任したのは2015年5月のことです。

 及川さんが京谷さんに依頼したのは「ディフェンスの強化」でした。というのも、持ち点1.0のローポインターとして、00年シドニー、04年アテネ、08年北京、12年ロンドンと4大会連続でパラリンピックに出場した京谷さんには、ディフェンスに関する豊富な知識と経験がありました。

 周知のように車いすバスケットには、障がいのレベルに応じて、最も重い1.0から4.5までの持ち点が定められています。試合中、コート上の持ち点の合計が14.0を超えてはいけません。

 ローポインターの京谷さん、かつて自らのプレースタイルについて、こう語っていました。

「ローポインターは密集した所や、相手との接触で体のバランスが崩されてしまうと、ボールを持ってのプレーは難しい。ハイポインターと呼ばれる体のバランスがいい味方選手のためにスペースを空ける動きや、味方選手が楽にシュートを打てるように、プレスをかけにきた相手DFをブロックするのが僕の主な役割でした。僕みたいなローポインターが相手のハイポインターを抑えたら、よりチームは楽になりますよね。だから現役時は、ディフェンスで相手のハイポインターをいかに抑えるか、そのためだけのトレーニングをアテネまで、やり続けました」

 京谷さんが事故に遭ったのは1993年11月28日。それが原因で下半身不随になってしまいました。

 それまではサッカー一筋でした。北海道の室蘭大谷高時代は攻撃的MFとして3年連続で全国選手権に出場し、3年時には92年バルセロナ五輪代表候補にも選ばれています。同級生には、その後、日本代表として活躍する相馬直樹さん、藤田俊哉さん、名良橋晃さんらがいました。

 高校卒業後の90年4月に古河電工に入社し、91年5月には東日本JR古河サッカークラブ(現ジェフユナイテッド市原・千葉)とプロ契約をかわしました。

 その2年後の93年5月15日、Jリーグは華々しく開幕します。

サッカーとの共通点

 当時は前期と後期の2ステージ制で、京谷さんの出場はかないませんでしたが、秋のヤマザキナビスコカップ(現ルヴァンカップ)には1試合出場しています。さあ、これからというときに車いす生活になったわけですから、現実を受け入れるには、時間がかかったはずです。

 車いすバスケットとの出会いは、ほんの偶然でした。事故直後に入籍した陽子さんが浦安市役所に障害者手帳を申請した際、手続きの担当者が車いすバスケットの強豪・千葉ホークスの小滝修さんだったのです。

 以前、本人はこう語っていました。

「正直、まだサッカーへの気持ちが強く残っていましたし、“所詮、障害者スポーツだろう”なんて思っていたんです。ところが、いざ見てみると、あまりの激しさに驚いてしまいました。サッカーをやってきた僕でも、“こんなん、できるわけがない”と思ったほどです」

 やっていくうちに、徐々に車いすバスケットの魅力に惹かれ始めたと京谷さんは言います。

「サッカーでは走っている選手の少し前のスペースにボールを入れるのが基本。車いすバスケットも漕ぎながらパスをもらう。つまりパスを出す感覚、もらう感覚はサッカーと同じなんです。それに気づいたとき、これまでサッカーでやってきたことは無駄ではなかったんだと。それから、より車いすバスケットにはまるようになったんです」

 2020年2月に車いすバスケット日本代表ヘッドコーチに昇格した京谷さんの戦術のベースにはサッカーがあります。指導者としては古河電工時代の岡田武史さん(サッカー元日本代表監督)から多くのことを学んだといいます。

「指示がすごく的確で、いつもいろんなことを考えているという印象がありましたね。選手ひとりひとりを本当によく見ていて、選手とのコミュニケーションを非常に大事にされる方でした」

 さて、現在の主力である鳥海連志選手や成長著しい古澤拓也選手は京谷さんがU23世界選手権でコミュニケーションをとりながら経験を積ませた選手たちです。彼らは先に紹介した三つのコンセプトをコート上で思う存分、体現しています。このまま表彰台の真ん中にまで上りつめてもらいたいものです。

二宮清純

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