二宮清純コラムオリンピック・パラリンピック 奇跡の物語
~ビヨンド・ザ・リミット~
2021年8月31日(火)更新
中西麻耶、アル・ジョイナーとの絆
22年世界選手権を見つめ現役続行
女子走り幅跳び(義足T64)で金メダルを獲ったのは両足義足のフルール・ヨング選手(オランダ)でした。6メートル16は世界新記録。メダルが期待された日本の中西麻耶選手は6位でした。
6本のうち3本ファウル
ヨング選手は1本目で、6メートル16を跳び、いきなり世界記録を2センチも更新しました。
両足義足のため、なかなかトップスピードには乗れません。アップライト気味の姿勢で、ゆっくり走り、踏切の瞬間、ブレードの反発を利用して高く跳び上がりました。世界記録を確認したヨング選手は、喜びのあまり何度も拳を突き上げました。6本のうち、6メートル超えはこの1本だけ。つまり最初の1本で金メダルを手中におさめたわけです。
一方、2019年世界選手権のチャンピオンで、大会前には「世界記録を出して金メダルをとりたい」と語っていた中西選手は踏切のタイミングが掴めず、自己ベストの5メートル70を更新することができませんでした。6本のうち3本はファウルにより記録なしでした。
試合後、中西選手は、走り幅跳びの“師匠”で1984年ロサンゼルス五輪三段跳び金メダリストのアル・ジョイナー氏に対し、「アルの言葉がなかったら、この場には立っていなかった」と感謝の言葉を口にしました。
というのも中西選手、2012年ロンドンパラリンピックの後、一度は引退を表明しました。その翌年、五輪・パラリンピックの東京開催が決定するのですが、アル氏から、「東京の舞台が待っているぞ」と復帰を促すメールが届いたというのです。こうした励ましのメールが中西選手の背中を押したことは言うまでもありません。
中西選手はパラ陸上を始めてから、わずか1年後の2008年北京パラリンピックに出場しました。100メートル6位、200メートル4位という見事な結果でしたが、メダルには届きませんでした。
「もっと強くなりたい」
単身、渡米した中西選手ですが、いきなり試練に見舞われます。自らを見てくれていたコーチが他国に引き抜かれてしまったのです。
「英語もできないし、途方に暮れました」
「考えるな」という教え
しかし、捨てる神あれば拾う神あり――。
ある日、サンディエゴのナショナル・トレーニングセンターでひとりの黒人男性から、声をかけられます。
「たったひとりで練習しているが、大丈夫なの?」
この言葉の主こそアル氏でした。
「じゃあ、僕が見てあげるよ」
振り返って中西選手は語ります。
「アルの指導を受けてから、着実に記録は伸びました。実は北京パラリンピック以前にも幅跳びに挑戦したことがあったのですが、3メートルちょっとしか跳べなかった……。一緒に練習していた選手から“センスがないから辞めた方がいい”とも言われました(笑)。でも、その時はそう言われても仕方ない感じでした。それがアルの指導を受けて変わったんです。最初の1本目は3メートル10。ちょっとアドバイスをもらって2本目を跳んだらいきなり4メートル20。帰国後に出場した大会では4メートル71。いきなり日本記録を塗り替えてしまったんです」
中西選手によると、アル氏の指導は独特だそうです。普通の指導者なら「考えなさい」と言うところを、アル氏の場合は「考えるな」。その心は?
「技術は頭で考えるものではなく、体で覚えるものだ。頭で考えながらやっても、それは時間が過ぎれば忘れてしまう。でも体が覚えていれば、どんなに時間があいても、無意識に動いてくれる。それがアルの考え方なんです」
東京では不発に終わった中西選手ですが、「来年の世界選手権に出たい」と早くも、視線は神戸を見つめています。「女子の幅跳びはいい戦いを見せられるところ。今度は自分が、その中心にいられるように頑張る」。結果も大事だけど、好きな陸上を続けることは、もっと大事なこと――。中西選手はそう言いたげでした。きっとアル氏も喜んでいるはずです。
二宮清純