二宮清純コラムオリンピック・パラリンピック 奇跡の物語
~ビヨンド・ザ・リミット~
2024年9月12日(木)更新
小田凱人、有言実行の金メダル
ヒューエットとのライバル物語
12日間にわたって熱戦が繰り広げられたパリパラリンピックが9月8日(現地時間)に閉幕しました。日本勢が獲得したメダルは金14、銀10、銅17個。メダル総数は夏季大会では史上4位タイの41個でした。
史上最年少で頂点
14個の金メダルの中には、種目別では史上最年少のものもありました。車いすテニス男子シングルスの小田凱人選手です。パラリンピック初挑戦、18歳にして頂点を極めました。
パラリンピックで、車いすテニスが正式競技として採用されたのは1992年バルセロナ大会からです。初代チャンピオンに輝いたランディ・スノー(米国)さんは33歳でした。スノーさんは、車いすテニスの他、車いす陸上、車いすバスケットボールでも活躍し、パラリンピックでは計6個のメダルを胸に飾っています。
日本人が車いすテニスに興味を持ち始めたのは、この人の活躍が大きかったと思われます。言わずと知れた斯界のレジェンド国枝慎吾さんです。
彼が初めてパラリンピックの男子シングルスを制したのは08年の北京大会。この時は24歳でした。12年ロンドン大会、ひとつはさんで21年東京大会でも頂点を極めました。この時は37歳でした。
仮に小田選手が37歳まで現役を続けた場合、パラリンピックにあと4回は出場することができます。
言うまでもなく、国枝選手の3度の優勝はパラリンピック男子シングルス史上最多。パリ大会の金メダルは、小田選手の“国枝超え”の第一歩となるかもしれません。
7日、ローランギャロスで行われた決勝戦の相手はイギリスのアルフィー・ヒューエット選手。世界ランキング1位(当時)の26歳です。
運命のドロップショット
4大大会とマスターズに限ってみると、全豪(23年)を1回、全仏を3回(17、20、21年)、ウィンブルドンを1回(24年)、全米を4回(18、19、22、23年)、そしてマスターズを3回(17、21、23年)制しています。
もちろん小田選手も負けてはいません。16歳で制した22年のマスターズを皮切りに全豪を1回(24年)、全仏を2回(23、24年)、ウィンブルドンを1回(23年)制しています。国枝選手が引退して以降は、ヒューエット選手と小田選手の2強時代に突入したと言っていいでしょう。
決勝戦を振り返りましょう。第1セットを6-2で先取した小田選手ですが、ヒューエット選手の反撃に遭い、第2セットを4-6で落とします。
この試合最大のヤマは最終セット、3-5で迎えた第9ゲームでした。40-30でヒューエット選手がゴールドメダルポイント(マッチポイント)を握ります。小田選手にとっては絶体絶命の場面でしたが、小田選手の裏をかいたつもりの英国人のドロップショットは、わずかにラインを割りました。
これで命拾いした小田選手は、持ち味の攻撃的なテニスでヒューエット選手を圧倒。ゴールドメダルポイントを手にすると、相手のサーブに強烈なリターンを見舞います。ヒューエット選手はこれを返すことができず、劇的な幕切れとなりました。
勝利のパフォーマンスはパリに来る前から決めていたようです。片方の車輪を外し、赤土の上に大の字で寝転がりました。近付いてきたヒューエット選手と握手をかわし、抱き合うシーンは感動的でした。
「この緊張感は4年に1度がちょうどいい」と小田選手。ヒューエット選手とのライバル物語は、この先もずっと続いていくことでしょう。
二宮清純