2026年1月28日(水)更新
NPBにおけるロサンゼルス・ドジャースの友好球団といえば、1961年にドジャースのベロビーチキャンプに参加し、いわゆる「ドジャースの戦法」を取り入れた読売ジャイアンツが有名ですが、1980年代の後半には、中日ドラゴンズが業務提携を結ぶなど、ドジャースとの関係を深めていきました。それを推進したのは87年に40歳の若さで監督に就任した星野仙一さんでした。
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星野さんの自著『ハードプレイ・ハード 勝利への道』(文藝春秋)によれば、星野さんがドジャースへの接近を図ったのは<監督になって一年目、二位に終わった年のオフ>だそうです。
<私はドジャースのピーター・オマリー会長、トム・ラソーダ監督、フロントのアイク生原さんらとの評論家時代の面識だけを頼りに渡米し、キャンプ参加を求めてドジャース側と直接交渉を行った>
中日の監督に就任するにあたり、星野さんがロールモデルとしたのがV9巨人の川上哲治さんです。背番号は77。それは川上さんがV9時代に背負ったものでした。ドジャースとの業務提携の背景には、“巨人超え”の野心があったのかもしれません。
それは、以下の文面からも見て取ることができます。
<ただ、ベロビーチにチームを連れて行き、ドジャースの施設を借りてキャンプするだけでなく、高い費用をかけて参加する以上、ドジャースとの合同練習ができないと意味はないと考えていた。これは、ベロビーチで過去五回以上もキャンプを張った巨人でさえ実現していないことだった>
星野さんは交渉を有利に進めるため、ラソーダさんをはじめとするスタッフを日本レストランに招待し、接待攻勢をかけたようです。こうして、ドジャースとの合同練習やオープン戦での中日の選手の参加が可能になったというのです。
星野さんは、当時のNPBには珍しく“政治力”のある監督でした。監督就任2年目の88年、中日は6年ぶりのリーグ優勝を果たします。ドジャースとの業務提携の成果といっていいでしょう。
わけても最大の成果は、84年に日大藤沢高からドラフト5位で入団した大型サウスポー山本昌さんの覚醒でした。
山本さんによると、本音ではドジャースの1A球団(ベロビーチ・ドジャース)への“留学”は「島流し」のようなもので、乗り気ではなかったそうです。しかし、どこでどう転ぶかわからないのが人生です。
以下は後年、山本さんが私に語った話です。
「アイクさんから“新しい変化球を覚えろ”と言われたのですが、なかなか投げられない。当時のドジャースの左のエース、フェルナンド・バレンズエラのスクリューボールを見たのですが、僕には無理そうでした。
そんなある日、チームメイトのヨゼフ・スパグニョーロがキャッチボールでシンカーを投げていた。よく変化するので“どうやって握るの?”って聞いたら自慢げに教えてくれたんです。“へぇー、じゃあ試してみようか”って投げたら、周りの皆が“意外と曲がっているよ”って言うんです。早速、試合で使ってみたら、190cmくらいある黒人のバッターが空振りした。これは使えるんじゃないかと……」
スクリューボールをマスターしたことをきっかけに、1Aながら山本さんはローテーションの一角にくい込みます。星野さんの本によると<モントリオール・エクスポズが獲得にくるほどの注目株に育った>そうです。
急遽、帰国した山本さんは、いきなり5連勝し、中日のリーグ優勝に貢献します。たったひとつのボールが人生を変えたのです。
しかし、とも思います。1Aとはいえ13勝7敗、防御率2.00という好成績を残し、トップ・プロスペクトのひとりに名を連ねていたということは、将来的にはMLB昇格の可能性が高かったということです。ある意味、山本さんは“幻のメジャーリーガー”と言えるかもしれません。

二宮清純
1960年、愛媛県生まれ。
スポーツ紙や流通紙の記者を経てフリーのスポーツジャーナリストとして独立。オリンピック・パラリンピック、サッカーW杯、ラグビーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。明治大学大学院博士前期課程修了。広島大学特別招聘教授。大正大学地域構想研究所客員教授。「スポーツ名勝負物語」「勝者の思考法」など著書多数。