2025年5月12日(月)更新
ルー・テーズを撃破したG馬場
「鉄人」バックドロップの衝撃

生前、ジャイアント馬場に「プロレス人生で、最も衝撃を受けた技は何でしょう?」と聞いたことがあります。返ってきた答えは「ルー・テーズにくらったバックドロップ」というものでした。
創始者はアド・サンテル
バックドロップは、日本においては“岩石落とし”と呼ばれていました。柔道の裏投げを起源とする、という説もあります。
バックドロップの創始者はドイツ系アメリカ人格闘家のアド・サンテルで、柔道の裏投げをベースに、この技を開発したと言われています。
このサンテルからバックドロップを習ったのが若き日のテーズで、本人はこう明かしています。
「1938年のサンフランシスコ遠征で、サンテルに柔道の裏投げのテクニックを教えてもらったことが、わたしがオリジナルのバックドロップを生み出す基礎となった」
1938年といえば、まだテーズが21歳か22歳の頃です。前年の37年12月、テーズはオハイオ州のミッドウェスト・レスリング・アソシエーション世界ヘビー級王座に就いています。
テーズが初来日を果たしたのは57年10月。自身が保持するNWAのベルトをかけ、日本プロレスを創設した力道山と2度戦いました。
その年の11月、ディック・ハットンに敗れ、NWA王座を明け渡したテーズですが、それまでの実績が認められインターナショナル初代ヘビー級王者に認定されました。
しかし58年8月、ノンタイトルながら力道山に敗れ、ベルトも奪われてしまいます。その後、力道山は19回の王座防衛を果たしますが、63年12月、暴力団員に腹部を刺されたことが原因で不帰の人となります。
力道山の跡を襲ったのが馬場です。65年11月、インターナショナルヘビー級王座決定戦でディック・ザ・ブルーザーを破り、テーズ、力道山に次いで第3代王座に就いたのです。
勝因はヘッドロック
66年2月28日、馬場は東京都体育館でテーズの挑戦を受けます。2人がシングルで戦うのは64年2月8日、デトロイトでのNWA世界ヘビー級戦以来2度目でした(テーズが2対1で勝利)。
結論から先に言えば、馬場が2対1でテーズを破り、2度目の防衛を果たします。1本目=馬場の体固め。2本目=テーズの体固め。3本目=馬場の体固め。後にも先にも、1試合でテーズから2本のピンフォールを奪って勝利したのは、日本人では馬場だけでしょう。
以下は後年、馬場本人から聞いた話です。
「2本目はバックドロップでやられた。テーズのバックドロップが他のレスラーと一番違うのは、投げる時のスピードなんだ。バックを取られると、それこそ受け身を取るひまもなく、気がついたらこちらはマットに突き刺さっているという感じかな」
この時、馬場28歳、テーズ50歳。馬場は「(テーズは)年齢を感じさせなかった」と言い、続けました。
「(テーズは)引きつける力が本当に強かった。その証拠に、他のレスラーは相手を頭越しに投げる時、必ずといっていいほど足が流れるけど、テーズの両足はピタッとマットに張りついたまま動かない。よくバックドロップは“へそで投げる”というけど、極意は上半身と下半身の力、そして投げるタイミング。それらが全て揃っていたのがテーズだったね」
最後に後日談を。
「あの試合の勝因はヘッドロックなんだ。この技で徹底的にテーズを揺さぶってやった。ピンフォールを2本取れたのは、この技が効いていたからだと思うよ」
馬場によると、ヘッドロックのコツは「右手で左腕をロックして上下左右に揺さぶること」。これは師である力道山直伝だと力説していました。

二宮清純