2023年10月9日(月)更新
暴力団員に刺された力道山の本当の死因は?
夫人・田中敬子さんとアントニオ猪木の証言。
日本におけるプロレスの創始者とも言える力道山が亡くなって、今年の12月で丸60年になります。力道山の死因については、今もいろいろな憶測が飛び交っています。
術後6日目に死去
力道山が東京・赤坂のナイトクラブで村田勝志という暴力団員に腹部を刺されたのは、1963年12月8日のことです。1週間後の15日、その傷が原因で絶命しました。享年39でした。
この事件は目撃者がいました。ナイトクラブ「ニューラテンクォーター」の経営者である山本信太郎さんです。
刺された直後の状況を、自著にて、こう描写しています。
<力道山はシャツをまくり上げ、腹部の傷口を私に見せた。血は流れていなかった。下に着ていたTシャツに小さな穴が空いていて、ほんのわずかに血痕がついているだけで、「流血」というにはほど遠い状態に見えた。ああ、浅手でよかった……実際そのときの私は、思いのほか“軽傷”な力道山の様子にほっとしたのである>(自著『東京アンダーナイト』廣済堂出版)
驚いたのは、力道山は山王病院で応急処置を受けた後、赤坂の自宅に戻っていることです。
夫人の田中敬子さんが著した『夫・力道山の慟哭』(双葉社)には、<マンションのチャイムが鳴って、出て行くと主人がキャピー原田さんと山王病院の長谷院長に抱えられながら帰って来たんです。主人はお腹を押さえて「痛い、痛い」って、酔っ払いながら叫んでいました>とあります。
夫人の著書には力道山の病状も、しっかりと記されています。
<百田光浩氏病状(力道山)
診断 右腹部刺創 小腸二ヶ所損傷
処置 小腸の創縫合
予後 今後約一ヶ月余の静養を要する見込
十二月九日 手術担当者 上中省三
山王病院長 長谷和三>
夫人は医療ミス説
にもかかわらず、術後6日目の15日朝、力道山は帰らぬ人となってしまうのです。
夫人は医療ミスを疑ったようです。
<主人が刺されたのは、あくまでも偶然の事故です。いまでもそう信じていますが……、二度目の手術は納得がいきません。私は当時から医療ミスがあったんじゃないかと思っていました。私の心の片隅に、一度目の手術のときに麻酔が効かなかったという言葉が引っ掛かっていたようです。麻酔のことを先生に尋ねると、ふつうの人より多めに投与したとは言っていました。後に通常より2倍の量の麻酔を使用したことがわかりました。>(同前)
これに対し、少々、冷めた目で師である力道山の臨終を見ていたのが付き人をしていたアントニオ猪木です。
<力道山がもし医者の言うことを聞いていれば、死ななかったのではないか。異常なまでにプライドが高かったから、気に入らないと医者を突き飛ばしたりしたらしい。医者に禁じられていたのに、勝手に水を飲んだのも悪かったのだろう。一時は快方に向かっていた力道山の様態が、悪化し始めた。
最後の日は、暴れると傷が開いてしまうというので、私たちが交代で足をずっと押さえていた。既に腸閉塞を起こしていた力道山の血圧は下がりはじめ、山王病院にはなかった薬をどこかの病院に取りに行っている間に、亡くなってしまったのである>(自著・猪木寛至自伝・新潮社)
死因を巡っては、こんな説を展開する者もいます。
<(力道山)先生は民族統一問題に対して日増しに関心を深めていた。1963年1月には韓国を極秘に訪問したあと、金日成主席に親書と高級外車を贈ったりした。先生は祖国統一を望む民族主義者へと変身していった。(中略)
こうした急激な南北和解や統一機運が生まれることに不安を感じた日本国内の目に見えない勢力が、先生を暴力的に排除したという見方だ>(自著『自伝大木金太郎伝説のパッチギ王』講談社)
朝鮮半島出身で、力道山の直弟子であるキム・イルこと大木金太郎の説ゆえ、一笑に付することはできませんが、個人的には陰謀論の域を出ないものだとの印象です。機会があれば、力道山が死の間際に指し示した3本の指の秘密についても述べてみたいと思います。
二宮清純