2023年4月10日(月)更新
ドン・レオ・ジョナサン「最強」伝説
ハイジャック・バックブリーカーの時代
プロレスラーは大きく2つのタイプに分けることができます。ひとつはナチュラルに強い人、もうひとつは、厳しいトレーニングを積むことによって強くなった人。今回、紹介するドン・レオ・ジョナサンは、前者の典型だったように思われます。
背中の上で磔(はりつけ)
身長196センチ、体重140キロ。惚れ惚れするような体躯の持ち主だったジョナサンですが、“鍛え上げた肉体”という風には見えませんでした。それでいて、対戦した力道山が「アイツと闘うと体がいくつあっても足りない」と弱音を吐くほどの怪力で、小柄なレスラーに対しては、まるで子供でも相手にするかのように適当にあしらうのが常でした。
それでいて運動神経も抜群で、リング上でトンボを切ることなんて朝メシ前。その身軽さは、まるでスーパーヘビー級のエドワード・カーペンティアでした。
得意技は一世を風靡した「ハイジャック・バックブリーカー」です。ハイジャックとは不穏当なネーミングですが、これをくらった対戦相手は、体ごと乗っ取られたような恐怖を味わったのではないでしょうか。
掛け方はシンプルです。いったん相手をカナディアン・バックブリーカーのかたちで背中に担ぎ上げ、そこから相手の両手首を両手で握り直し、自らの頭をテコの支点のようにしてブン回すという豪快極まりない荒業です。
上から見ると、相手はジョナサンの背中の上で磔(はりつけ)になっているように映ります。さながら十字架刑です。そのためクロス・スピン・バックブリーカー(十字架式回転背骨折り)と呼ばれることもあったそうです。
蛇足ですが、1960年代から70年代にかけて、日本ではハイジャック事件が相次ぎました。中でも70年3月に起きた赤軍派学生を中心とした犯人グループによる日本航空351便乗っ取り事件(通称・よど号ハイジャック事件)は世間を震撼させました。北朝鮮に渡った犯人グループは、後に日本人拉致事件にも関与したことが明らかになっています。
ブッチャーにフォール負け
77年9月には、フランスで日本航空472便が日本赤軍5人に乗っ取られました。パリを発った同機は犯人グループにより、バングラディシュの首都ダッカに強制着陸させられました(ダッカ事件)。さらに犯人グループは人質の身代金として600万ドルと服役中のメンバーの釈放などを日本政府に要求。福田赳夫首相(当時)は、「ひとりの生命は地球より重い」と述べ、「超法規的措置」として無謀な要求に応じてしまったのです。
ジョナサンは58年から78年の間に8回来日しています。73年の来日では、ジャイアント馬場とPWFヘビー級王座を争っています。
先述したように、この頃、ちょうどハイジャック事件が相次いでいたこともあり、ただでさえジョナサンの「ハイジャック・バックブリーカー」の危険なイメージは、さらに増幅されていったような印象があります。
均整のとれた巨体、軽業師のような運動能力、キリッとした映画俳優ばりのマスク、そしてオンリーワンの必殺技。およそプロレスラーとして必要な資質を全て持ち合わせていながら、興行の目玉になれなかったのは、欲が不足していたからではないでしょうか。世界の一流どころをごっそり集めた75年の「全日本プロレスオープン選手権大会」で、アブドーラ・ザ・ブッチャーと対戦したジョナサンは、序盤から攻めに攻めながらサンセット・フリップに失敗、ブッチャーのエルボードロップ一発に沈んでしまったのです。ジョナサンはスリーカウントをどんな思いで聞いていたのでしょう。
二宮清純