2022年9月12日(月)更新
外国人国内初エース、B・ロビンソン
筋金入りシューターの原点は「蛇の穴」
外国人レスラーの中で、誰がカッコいいと言って、ビル・ロビンソンの右に出る者はないでしょう。相手レスラーが宙に舞う得意技のダブルアーム・スープレックスをテレビで初めて観た時の衝撃は54年経った今も忘れることができません。
国際プロレス登場
ロビンソンが初来日を果たしたのは1968年4月です。国際プロレスの日英チャンピオン・シリーズでした。ロビンソンは前年の1月には兄弟子のビリー・ジョイスからブリティッシュ・ヘビー級王座を奪取、年齢も29歳と脂が乗り切っていました。
ジョイスというレスラーがどれだけ強かったかについては、自伝の『高円寺のレスリング・マスター 人間風車』(エンターブレイン)にこう記しています。
<コクサイ参戦時のスパーリングで、私はもう(カール・)ゴッチに負けることはないと確信したが、ウィガン時代にゴッチとビリー・ジョイスのスパーリングを一度見た時など、ゴッチはジョイスの脚に触ることさえできなかった>
残念だったのは国際プロレスにロビンソンと互角に渡り合える日本人レスラーがいなかったことです。
本人は自伝で、こう述懐しています。
<プロモーターのヨシハラ(吉原功)はたいへん紳士的で誠実な人物であった。訪日第一戦はトヨノボリ(豊登)が相手だった。とても力の強い選手ではあったが、テクニック的には正直言っていまひとつだった。
その後はクサツ(グレート草津)、スギヤマ(サンダー杉山)、キムラ(ラッシャー木村)……などとも対戦した>(同前)
吉原功が社長を務める国際プロレスは、後発のアントニオ猪木率いる新日本プロレスやジャイアント馬場擁する全日本プロレスの後塵を拝していました。そこで吉原が考えたのがロビンソンのエース抜擢です。68年11月から12月にかけて行われたIWAワールドチャンピオン・シリーズに英国代表として出場したロビンソンはIWA王者に輝きます。外国人レスラーといえばヒールが当たり前の時代、ベビーフェイスの外国人が誕生したのです。
「肉体のチェス」
ロビンソンと言えばダブルアーム・スープレックスやワンハンド・バックブリーカーなど派手な大技に目がいきがちですが、イングランドのランカシャー地方で「SNAKE-PIT」(蛇の穴)と呼ばれ、恐れられていたビリー・ライレー・ジムで身に付けたテクニックは筋金入りでした。
蛇足ですが、梶原一騎の代表作『タイガーマスク』における「虎の穴」は、この「蛇の穴」がモデルになっています。主人公の伊達直人(タイガーマスク)も、この“秘密ジム”の出身です。鉄橋に逆さ吊りにされながら腹筋を命じられ、素手でライオンと闘わされたりするシーンは、あまりにも有名です。
話を「蛇の穴」に戻しましょう。ロビンソンによるとジムがあるウィガンは炭鉱の町で、男たちは皆、筋骨たくましく、炭鉱夫上がりのレスラーもたくさんいたと言います。いったいジムでは、どんなトレーニングが行われていたのでしょう。
<スパーリングは最近目にするようなスポーツ的、アマレス的ななま易しいものではなく、ヒジやヒザ、拳、そして頭など武器にできるあらゆるところをエゲツなく使う激しいものであった。決して大げさな話ではなく、本当にいつも身体中アザだらけだった>(同前)
ロビンソンに高円寺の「U・W・F・スネークピットジャパン」でインタビューしたのは01年2月のことです。62歳のロビンソンは後進たちの指導にあたっていました。
「あなたにとってレスリングとは?」
私の質問に“人間風車”はこう答えました。
「それは肉体のチェスのようなものだ。とりわけ大切なのはハートにコンディションだ。車にたとえていえば、ハートがエンジン、コンディションがガソリンといったところだろうか。これにテクニックとパワーが加わる。この4つがうまくコンビネーションされれば、もう何も恐れることはない。パーフェクトということさ」
ロビンソンそのものが、レスリングの“生きた教材”でした。
二宮清純