泉秀樹の歴史を歩く

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家康という生き方 立志篇【2022年12月】

松平竹千代(徳川家康)は天文11年(1542)12月26日寅の刻、三河・岡崎城(愛知県岡崎市)本丸の北の、二の丸(御誕生曲輪)で生まれた。
父は城主・松平広忠(17歳)で、竹千代は長男として生まれた。
母は広忠の正室である尾張国知多郡の緒川城(愛知県知多郡東浦町)の城主で、三河国碧海郡(愛知県刈谷市)に刈谷城を築いた水野忠政の娘・於大(十五歳・伝通院)である。

が、とにかく弱小領主だった三河・松平氏は、東の駿河・遠江を領する今川義元と、西の尾張の織田信秀(信長の父)にはさまれて、身動きがとれない状況下にあった。
そして、水野忠政が亡くなった後、すぐに異変が起こった。

水野家の家督を継いだ於大の兄・信元が天文13年(1544)にそれまでの主筋であった今川と関係を切って織田側についたため、於大は離縁され、実家の水野家へ帰された。夫の広忠が今川に忠誠を示すために離縁せざるを得なかったのである。
於大は広忠の家臣に送られて刈谷城へ帰っていったが、途中から家臣たちを戻らせた。
兄の信元は短気だから、私についてきたあなたたちを、必ず殺すでしょう。そうすると竹千代に生涯うらまれることになりますから、ここから岡崎に帰ってほしいのです、と於大はいったという(『松平記』)。
このひとことから、於大は配慮の行き届いた聡明な優しい女性であったことがわかる。

於大のその先のことを述べてしまうと、彼女は実家へ帰ったのち、3年後の天文16年(1547)兄・信元の命令で坂部城(阿久比城・愛知県知多郡阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁させられ、三男三女を産むことになった。
このとき竹千代はまだ3歳で、乳母がついていただろうが、さぞ実母の於大が恋しかっただろうと思われる。

そして、同じ天文16年(1547) 松平広忠は駿河の今川義元に応援を求めた。
原因はまず織田信秀がたびたび三河に侵入して安祥城(愛知県安城市)を奪取し、さらに岡崎城を狙っていることがわかったことと、一族内の主導権争いである。
父•清康の弟、広忠からすれば叔父である三木松平の信孝が松平宗家の乗っ取りを画策したためだった。
それも、織田方に寝返っていた上和田城(愛知県岡崎市上和田町南屋敷)の松平忠倫、上野城(愛知県豊田市上郷町藪間・上郷護国神社)の酒井忠尚と結託していたから、広忠は追い詰められた。
広忠は今川に援助と保護を乞うしかなかった。

すると今川義元は、ならば、竹千代を人質に出しなさいという。
人質を出せば援軍を送ろう、という取引である。
広忠としては、今川への服従・忠誠がゆるぎないものであることを証明し、三河の安全のために今川義元と同盟の結びつきを強化する必要があった。
3歳で実母・於大と生別した竹千代は、またしても6歳で実父とも生別しなければならなかった。
ここで、竹千代は父に棄てられたのだともいえる。
幼児の竹千代は抗うことなどできなかった。
どうすることもできなかった。
ただいうがままにされるしかなかった。自分ひとりでは越えることのできない「危機」を迎えたといえよう。

竹千代は同年の遊び友達としてつけられた阿部正勝と同じ輿に乗り、家人28名と雑兵50余名で岡崎城を出発した。
そして、彼等は三河国・宝飯郡西郡(愛知県蒲郡市)から船で渥美湾を横断し、いったん渥美郡・田原(愛知県田原市)に上陸した。
天文16年(1547)8月2日のことである。
田原城(愛知県田原市田原町巴江)には、竹千代の父・広忠の、後妻・真喜姫の父・戸田康光がいた。竹千代にとっては義理の祖父である。
ところが、である。

一行は東海道を駿府(静岡県静岡市)に向かう予定だったが、この康光が陸路で駿府へ行くのは危険だから、船で行く方がいいと勧め、一行は船に乗った。
家康たちが勧められた船に乗ると、その船はなんと尾張の熱田の港に到着した。
康光は織田信秀に寝返っていた。
竹千代を拉致し、売り渡してしまったのである。

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