泉秀樹の歴史を歩く

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流浪の将軍・足利義昭の陰謀【2019年12月】

常国寺(広島県福山市)義昭の遺品

常国寺(広島県福山市)義昭の遺品

「流浪の将軍」といわれた室町幕府15代にして最後の将軍・足利義昭が今回の番組の主人公である。天才・信長を倒すために陰謀と策略と密計に生きた義昭は、なにをたくらみ?どう餌を撒き?誰をそそのかし?どんな罠を仕掛けたのか?遠い昔と今を結ぶ線を辿り、作家・泉秀樹が歴史の現場を取材して、独自の視点で人と事件をプロファイルする!

第1章 将軍への道

足利義昭は、天文6(1537)年11月3日に12代将軍・義晴(よしはる)の次男として生まれた。4歳で寺格(じかく)の高い奈良・興福寺の塔頭・一乗院の門跡(住職)となった。外祖父・近衛尚通の猶子(養子)として、一乗院に入れられたわけだが、その理由は足利将軍家がひどく困窮していたからだと言われている。この頃には室町幕府はもう破綻しており、幕府としての体面を保てなくなっていた。8代・義政以降、下剋上の世の中となり、歴代将軍は困窮するどころか、追放されたり、廃立されたり暗殺されたりで、当代の将軍・義晴も京都を追われ、丹波、近江と流浪の生活を余儀なくされていた。そして、力を持ちはじめた三好一党に対抗しようとしたものの、果たせないまま無念にも病死した。義昭は将軍になるどころかその身も危険にさらされていたのである。

第2章  十五代将軍・義昭の誕生

二条御所石垣(復元)

二条御所石垣(復元)

永禄11(1568)年7月、義昭は、岐阜の信長のもとに身を寄せた。信長はこの前の年に、長い戦いの末に美濃の斎藤龍興(たつおき)を破り、美濃を征圧して義昭を岐阜へ招いたのである。義昭は細川藤孝(ふじたか)と明智光秀の斡旋によって、信長の庇護下に入った。それからの信長の動きは実に早かった。2か月後の9月には京都に向けて出発し、途中、南近江で抵抗する六角義賢(よしかた)を破り、松永氏をも降伏させた。また、三好一党が拠る摂津・河内の城を降伏させたため、三好勢は京都から退散してしまった。6万の精鋭を率いた信長は9月26日に上洛を果たし、三好一党の傀儡であった14代将軍・義栄は阿波(徳島)へ逃亡し、腫物を患って死んでしまった。いよいよ義昭が15代将軍の座に就く時が来たのである。

第3章  義昭と信長の戦い

槇島城跡(京都府宇治市)

槇島城跡(京都府宇治市)

二条御所が完成して、すっかり自分の手で幕府を再興させたと思いこんでしまった義昭は、将軍として政治的活動を始めた。しかし、義昭もまた傀儡政権であり、権力はすべて信長にあることが明白になり、それまで義昭の奉公衆として仕えていた明智光秀は、義昭から離れて信長傘下に入ることを決めた。こうして義昭は越後・上杉氏や周防・毛利氏、豊後・大友氏などに御内書を送ったり、越前の朝倉義景と本願寺との和解を求める御内書を送ったりしたのだったが、このような義昭の行動に、信長は不快感を抱き、警戒心を強めた。そして、永禄12(1570)年正月になると、9ヶ条の「殿中御掟」を定め、これを守ろうとしない義昭に対してさらに「殿中御掟5ヶ条」を発した。義昭は信長の真意を思い知らされて、以後、義昭と信長の生涯にわたる闘いが始まることになる。

第4章   義昭の逆襲

鞆ノ浦(広島県福山市)

鞆ノ浦(広島県福山市)

結局、信長の7万余の軍勢の猛攻に屈して降伏した義昭は、またしても流離うことになる。二歳の息子の義尋(ぎじん)を人質に差し出し、河内・枇杷荘(京都府城陽市)へ送られてしまった。さらに天正2(1574)年には紀伊・由良(和歌山県日高郡由良町)の興国寺へ。しかし義昭は諦めることもせず、あきもせず、今度は、毛利氏に御内書を発行して頼みの綱をつなごうとした。したがって幕府は消滅してなどいなかったともいえるのである。義昭は、熊野水軍と手を結んで備後(びんご)・鞆(とも)ノ浦(広島県福山市鞆町)へ移動した。鞆ノ浦は足利尊氏が光厳天皇から新田義貞追討の院宣を受けた足利家には重大な由緒のある場所でもある。これ以後、義昭は室町幕府ではなく「鞆幕府」を称し、人々は義昭を「鞆公方」と呼んだ。

登場人物プロフィール

足利義昭(あしかがよしあき)

足利義昭(あしかがよしあき)

室町幕府第15代にして最後の将軍。天文6(1537)年11月3日に12代将軍・義晴(よしはる)の次男として生まれた。母は近衛尚通の娘・慶寿院。兄は第13代将軍・足利義輝である。4歳で寺格(じかく)の高い奈良・興福寺の塔頭・一乗院の門跡(住職)となり覚慶(かくけい)と名乗った。兄・義輝らが三好三人衆らに暗殺されると、細川藤孝や明智光秀の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗る。美濃国の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任したが、あくまでも信長の傀儡であることを思い知らされ、やがて信長と対立し、敗れる。これで室町幕府は滅びたと言われているが、その後備後(びんご)・鞆(とも)ノ浦(広島県福山市鞆町)へ移り、これ以後義昭は室町幕府ではなく「鞆幕府」を称し、人々は義昭を「鞆公方」と呼んだ。

織田信長(おだのぶなが)

織田信長(おだのぶなが)

天文3(1534)年、織田信秀の子として生まれ、天文21(1552)年に織田弾正忠家の家督を継いだ。永禄3(1560)年には桶狭間の戦いにおいて駿河の戦国大名・今川義元を撃破し、三河の領主・徳川家康(松平元康)と同盟を結ぶ。永禄8年(1565)年、犬山城の織田信清を破ることで尾張の統一を達成した。一方、室町幕府将軍足利義輝が殺害された後に、足利義昭から室町幕府再興の呼びかけを受け、永禄11(1568)年10月に上洛し、三好三人衆などを撃破して、室町幕府の再興を果たした。しかしその後義昭と敵対することとなり、反旗を翻した義昭を槇島城の戦いで破って京都から追放した。しかし毛利氏討伐のため、中国地方攻略に赴く準備を進めていた天正10(1582)年6月2日、明智光秀の謀反によって、京都本能寺で自害に追い込まれた。

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