泉秀樹の歴史を歩く

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上杉謙信 正義と秩序のために【2019年11月】

上杉謙信像(新潟県上越市・春日山神社)

上杉謙信像(新潟県上越市・春日山神社)

生涯にわたって改名を繰り返した名将。「景虎」「宗心」「政虎」「輝虎」そして「謙信」は誰もが知るもっともポピュラーな名前ではないだろうか。「越後の龍」と呼ばれた上杉謙信が今回の主役である。陰謀渦巻く戦国にあって、正義と秩序のために上杉謙信は戦いつづけた。勇猛果敢な名将が選んだ純粋にして清廉潔白な生き方とは? 遠い昔と今を結ぶ線を辿り、作家・泉秀樹が歴史の現場を取材して、独自の視点で人と事件をプロファイルする!

第1章 川中島の合戦

武田信玄と上杉謙信一騎打ちの像(長野県長野市・川中島古戦場八幡社)

武田信玄と上杉謙信一騎打ちの像(長野県長野市・川中島古戦場八幡社)

天文21年(1552)謙信23歳のとき、関東官領・上杉憲政が小田原の北条氏康に敗れ、助けを求めて越後へ逃げ込んで以降、謙信は、関東を背負って立つことになる。このときから27年間、死に至るまで三国峠を越えて関東に14回攻めて出ているが、すべて、ひとえに、純情さの発露であった。上杉謙信といえば、反射的に武田信玄を連想するが、両者は川中島(長野)において計5回その力を競い合った。12年にわたる戦いの発端は、村上義清、小笠原長持が信玄に領土を侵略されたと助けを乞うたことにはじまるが、最も激しい戦闘が展開されたのは永禄4年(1561)9月12日の4回目の川中島の合戦であった。信玄軍に不穏な動きがあることを察知した謙信は山本勘助の挟撃作戦を見破り、夜の間に音をたてないように注意深く妻女山をおりたのである。

第2章  謙信の戦法

上杉謙信の銅像(新潟県上越市埋蔵文化財センター前)

上杉謙信の銅像(新潟県上越市埋蔵文化財センター前)

信玄も強かったが、謙信は「戦国最強」と賞讃されてきた。それはなぜなのか。どこにその最強の秘密があるのか? まずはその教祖的な清潔さが人心を掌握したことが精神的な核になって強い団結力を生んだからだといえるであろう。謙信はそのカリスマ性による求心力によって、ついには生涯の70戦余に9割を越える勝率をもたらした。合戦のときは最初に鉄砲、弓が攻撃を加え、続いて喊声を上げて槍隊と手明が突進して叩き、突き刺し、斬撃を展開し、騎馬隊も突撃で蹴散らして征圧していく。槍隊は陣笠も胴もつけていないが、勇猛果敢だった。衣服だけだから、敵の攻撃には弱いけれども、それだけ躯の動きが敏捷な戦いができる。戦いに電撃的な速度がでるということで、これを謙信は巧みに統率した。

第3章  謙信の時代

小田原城(神奈川県小田原市)

小田原城(神奈川県小田原市)

永禄3年(1560)謙信は8,700の精鋭をひきいて三国峠を越え、上州(群馬県)に乱入した。上杉憲政に乞われて北条氏康を討つためであったが、沼田、厩(前橋)を抜き小田原を目ざすと、たちまちのうちに関東の諸将が参陣し、その軍団は115,000にふくれあがった。集まった武将たちは謙信が自分たちに利益をもたらすと計算したのだ。しかし小田原城攻めは難航した。酒匂川に邪魔されたうえ、小田原城は巨大な名城で、あちこちに放火するなどしてひと月ほども粘ったが、どうしても攻略できなかった。そこへもってきて武田信玄が善光寺平や笛吹峠に進出し、越中と越後の境では門徒衆が蜂起するなどして背後がうるさくなり、このあたりで関東管領の権威は回復できたと考え、謙信はいったん軍団をひきあげさせることにした。

第4章  悩める名将

上杉謙信の墓(新潟県上越市・林泉寺)

上杉謙信の墓(新潟県上越市・林泉寺)

天正元年(1573)4月、長年の宿敵・信玄が没して一度は安堵したものの、一向一揆の掃討、北関東への出馬、つづいて越中へ。天正4年3月には再び越中へ出陣して織田信長の動きを封じ、またしても加賀、能登へ進繋…謙信はくりかえし加賀、関東と精力的に働いた。しかし、京に竹に雀の紋を染め抜いた旗や「毘」や「龍」の旗印を打ちたてるには越後はあまりにも遠く、局地戦をくりかえすに止まらざるを得なかったのだ。謙信は酒を好んだ。酒は少しずつだが、確実に謙信の躰をむしばんでいた。高血圧症である。そして、それは謙信49歳の春に唐突に来た。天正6年(1578)3月9日、厠で倒れたのである。 「虫気」(チュウキ・脳卒中)の発作であった。昏倒した謙信は、5日間昏々と眠りつづけた。意識はもどらず、3月13日に没したのである。

登場人物プロフィール

上杉謙信(うえすぎけんしん)

上杉謙信(うえすぎけんしん)

享禄3年(1530)正月21日。謙信は、越後国頸城郡・春日山城(新潟県上越市)に生まれた。父は越後守護代職・長尾為景で、兄・晴景がいた。謙信は次男である。幼い頃は春日山城の近くにある林泉寺に預けられ、ここで名僧・天室光育の教育を受けて育った。この時期に、精神の中心に仏教(真言宗や禅宗)を据えた。みずからを摩利支天の生まれ変わりであると考え、毘沙門堂に入って祈る習慣を身につけたのだ。謙信は男色説、不能説などがあるが、仏教的な禁欲主義と女性への思いが矛盾し、苦悩した結果が独身主義となったように感じられる。一言でいえば、純粋だったのだ。それも病的なほどの純情であり、この純情さは対女性だけでなく彼の生涯を貫いている。戦国時代はスレッカラシが生き残る時代であったが、謙信は一生純情であろうとしたのだ。

武田信玄(たけだしんげん)

武田信玄(たけだしんげん)

大永元年(1521)11月3日、甲斐国守護・武田信虎の嫡長子として生まれた。大永3年(1523)兄の竹松が7歳で夭折した為、嫡男となる。謙信が純情な理想主義者とすれば、信玄は権謀術数にたけた冷徹なリアリストである。川中島での謙信との戦いは、戦国を象徴する激戦であった。理想主義者と現実主義者の戦いは、両者とも「勝った」と宣伝して終わることになった。幕の内の床几に腰をおろした信玄に白馬の上から切りかかる謙信…この講談的なエピソードはありえない話だが、いかにも勇壮で、浪曲風ないい方になるが「血湧き肉おどる」興奮を呼ぶ。謙信・信玄にはこうした伝説をつくりたくなるような英雄性があるということだろうが、実際にはなかったことでなのである。

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