泉秀樹の歴史を歩く

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豊後王の愛と野望・大友宗麟の真実【2019年9月】

大友宗麟肖像(瑞宝院所蔵)

大友宗麟肖像(瑞宝院所蔵)

十六世紀の戦国の世に九州の六カ国を支配した最大最強の大々名・大友宗麟。宗麟はどのようにしてその莫大な富と絶対的な力を手に入れ、大きな権力を維持したのか?また、キリスト教徒だけの住む理想郷を築こうとして、夢破れたのはなぜなのか?遠い昔と今を結ぶ線を辿り、作家・泉秀樹が歴史の現場を取材して、独自の視点で人と事件をプロファイルする!

第1章 大友家と南蛮貿易

宗麟・大分駅前

宗麟・大分駅前

大友宗麟は、享禄三年(1530)1月3日、豊後府内、現在の大分県大分市に生まれた。父は豊後守護と鎮西探題を兼ねる大友義鑑で、母は周防・長門・豊前・筑前・安芸・石見の守護を兼ねる大内義興の娘であるから、名門中の名門の両親の長男として生まれたことになる。大友家は中国・東南アジア、さらには西欧(南蛮)との交易により財を蓄え、宗麟は室町幕府に貢物をして役職を手に入れた。九州六カ国の守護になって永禄二年には九州探題(九州を支配する役職)にも任じられた。とにかく九州最大の権威と権力を一手に握って、その存在を誇ったのである。

第2章  淫蕩無頼とザビエル

銃と十字架

銃と十字架

宗麟が家督を継いだ翌年の天文二十年(1551)9月、22歳の宗麟は、かねてから手紙を送って招聘していたイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルと面会した。槍隊500名をならべてザビエルを迎えた宗麟は、ただ最新の鉄砲と火薬、大砲や西欧の文物を求めていたのだったが、意外な展開を見せることになる。ザビエルから教えられたキリスト教の教義について「いま聴聞せし説より高き説はなかるべし。また、この説よりよく道理に合した説はなかるべし」と感じて、それがのちに宗麟の人生の最もおおきな野望を決定することになってゆくからである。ところが宗麟は、キリスト教の教義にはあまり熱心ではなかった。義理の叔母を側室にしたことをザビエルから厳しく叱責されたにもかかわらず、彼の女癖の悪さは改まらなかったのだ。

第3章  臼杵とジュリア

臼杵城

臼杵城

弘治二年(1556)大友宗麟は、臼杵湾に浮かぶ丹生嶋(にゅうじま)に城を築いた。周囲を海に囲まれた、まさに天然の要害であった。その後町も整備され、城下町独特の美しく風情ある町並みが今に残されている。宗麟は当時は禅宗に深く帰依していて、キリスト教徒にはならなかった。しかし、ザビエルが残していった宣教師たちの布教活動を支援した。この臼杵の地にノビシャド(修練院)を作って、ハンセン病患者を収容する病院まで建てたのだ。宗麟が3番目の女性であるジュリアと生活したのが、海添(かいぞえ)とよばれる、昔は海辺だった地域である。すぐ近くに臼杵城という巨大なお城があるのに、そこを出て愛妻と小さな屋敷で暮らすというのは、ちょっと不自然で滑稽な感じがしないでもない。

第4章   musica 夢の共和国

宗麟原供養塔・川南町高城

宗麟原供養塔・川南町高城

九州の覇者である宗麟に圧迫されていた薩摩(鹿児島県)の島津義久が、起死回生を期して日向(宮崎県)に侵攻したのは天正五年(1577)12月である。野尻城・高原城(宮崎県西諸県郡)に拠っていた伊東義祐・義益父子は、豊後に逃れて宗麟を頼った。義益に宗麟の孫娘が嫁いでいた関係である。宗麟の後継者の義統は翌年の天正六年(1578)の春6万の軍を率いて日向に入り、直ちに延岡城にいた土持親成を踏み潰して日向を制圧した。この勝報を喜んだ宗麟は、すでに隠居していたにも拘らず、十月に妻・ユリアと甥の田原親虎、イエズス会日本布教長フランシス・カブラルと宣教師ルイス・デ・アルメイダや二人の修道士と三百の将兵を従えて出陣した。そして、現在の延岡市にある無鹿という町にキリスト教徒だけの理想郷を作ろうとしたのである。

登場人物プロフィール

大友宗麟(おおともそうりん)

大友宗麟(おおともそうりん)

享禄3年(1530)1月3日、豊後府内、現在の大分県大分市に生まれた。父は20代当主で豊後守護と鎮西探題を兼ねる大友義鑑。本名は大友 義鎮(よししげ) で、宗麟(そうりん)は、33歳で出家してからの法号である。キリシタン大名としても有名であるが、実際に洗礼を受けたのは47歳になってからで、当初キリスト教の布教を許可したのはもっぱら南蛮貿易が目当てであった。大友氏がもっとも栄えた21代当主。中国明朝をはじめ、琉球、カンボジア、ポルトガルを相手とした海外貿易による経済力、優れた武将陣、巧みな外交により版図を拡げ、最盛期には九州六ヶ国を支配して版図を拡げた。しかし、薩摩から北上した島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名となった。息子の義統(よしむね)の代で大友家は滅びたのである。

フランシスコ・ザビエル

フランシスコ・ザビエル

フランシスコ・ザビエルはスペインのザビエル城というお城の息子で、パリのソルボンヌへ留学した時にイグナチウス・ロヨラという人物がいた。その人の影響を受けて、ごくごく普通の留学生だったザビエルもキリスト教徒になって、皆でイエズス会という布教の会を作ったのである。ザビエルはまずインドのゴアへキリスト教の布教に行った。それからマレーシアのマラッカで「ヤジロウ」という鹿児島出身の人殺しと出会った。でその人と話をしているうちに、日本というのは本当に素晴らしい国だから是非その国も布教しなければならない、と考えるようになった。それででザビエルは日本へ来たのである。

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