泉秀樹の歴史を歩く

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将軍吉宗の虚と実【2018年11月】

吉宗騎馬図

吉宗騎馬図

「徳川幕府中興の祖」とたたえられる八代将軍・吉宗は、ほんとうに、名君だったのか。吉宗の政治改革は、どのようなものであったのか。それは、ほんとうに素晴らしかったのか。その人生と業績を洗い直し、独裁者の素顔に迫る。遠い昔と今を結ぶ線を辿る。作家・泉秀樹が歴史の現場を取材し独自の視線で人と事件をプロファイルする!

登場人物プロフィール

徳川吉宗肖像

徳川吉宗肖像

徳川吉宗

身のたけ六尺(180センチ強)で肌の色は浅黒く、あばた顔で人に威圧感をあたえた。野性的で武張った印象である。テレビドラマのように将軍になってからひとりで外出するようなことはなかったと思うが、若いころは2、3人の供をつれて夜店をひやかして回ったり、釣り帰りの家中の者から魚を買い取り簡単な料理をつくらせて茶碗酒を飲むようなこともあった。ふと見かけた町人の夫婦ゲンカの仲裁をしたりすることもあったらしく、こうした逸話が現代でもなお『暴れん坊将軍』として親しまれているのだと思われる。吉宗が33歳で八代将軍に就任した享保元年(1716年)、幕府の財政は、ほとんど破綻していた。そのため増税と質素倹約などの幕政改革、新田開発、目安箱の設置などの享保の改革を実施した。幕府の財政に直結する米相場を中心に改革をおこなったことから米将軍とも呼ばれた。

第1章 吉宗誕生

吉宗誕生の地(和歌山市吹上)

吉宗誕生の地(和歌山市吹上)

徳川吉宗は、貞享元年(1684)10月21日、紀州・和歌山城下の吹上で生まれた。父は紀州徳川家二代・光貞であり、吉宗は第四男であり、家康の曽孫にあたる。吉宗が5代に就任することになったときの紀伊の国は、すさまじい財政難で、吉宗は、つぶれかけた会社の社長として働くことを強いられたのも同然であった。領地の行政機構を簡素化し、質素倹約を徹底して財政再建を図るなどの様々な手を打った。家臣からに20分の1の差し上げ金を課したり、治水の神様と呼ばれた大畑才蔵に命じて小田井堰を作らせたりした。これによって1,070町歩の水田に水を引くことができた。これらの改革により当主就任後およそ10年で、幕府からの借金も、家臣の差し上げ金も完済した。紀伊徳川家の金庫には、14万両もたくわえができたと言われている。紀伊での領主経営の手法は、江戸で将軍職についてからも行われることになる。

第2章  享保の改革

和歌山城

和歌山城

享保7年(1722)、これまで農民に課せられる年貢の量は、その年の作柄を見て年貢率を決める「検見取法」であったが、より高い一定の税率を課す「定免法」に切りかえ、続いて「有毛検見法」という所得税的な計算に変えた。このため20パーセント台であった年貢率は30~40パーセントとなり、農民の生活を苦しめた。吉宗は、厳しい倹約令を出して支出の減少をはかるとともに、上米の制や、定免法など数々の収入増加策を打ち出した。ついで抜本的な増収策として、商人資本の力を借りて新田開発を進めた。幕府の直轄領をふやして年貢の増収をはかったのであった。こうして享保6年(1721)から同16年(1731)まで、年平均にすると米で約3万5,000石、金は12万7,000両という黒字を出し、江戸城の金蔵に100万両を貯めこんだ。

第3章 尾張・宗春との確執

名古屋城と御殿

名古屋城と御殿

尾張では7代・徳川宗春の執り成しにより、幕府の倹約令で自粛していた祭りや規制されていた芝居、遊郭の営業が再開され、名古屋のまちは、たいへんな賑わいを見せていた。名古屋の狂態ともいえる繁栄が吉宗の癇に障らないはずがない。宗春は、尾張の当主に就任した時に、自分の政策マニフェストにあたる『温知政要』という書物を尾張の武士たちや、吉宗にまで配布している。そこには自由経済を推進し、吉宗の政策を批判する内容が書かれてあった。「町人を法で縛らず、百姓からたくさん年貢をとらず、紙幣を発行することもなく、借金をしなくても何の不足もない。自由ではないか。人の目には驕っているように見えるかもしれないが、これこそ倹約である。」こういって宗春は幕府の倹約と増税策に反対した。さらに宗春は「倹約の干渉をするとは天下国家の聖主にあらず」と嘲笑するように吉宗を批判して「隠居謹慎」を命ぜられ、名古屋は火が消えたようになった。宗春は死後75年を経た天保10年(1839)までゆるされることはなかった。

第4章 晩年の介護生活

江戸城・天守台石垣

江戸城・天守台石垣

隠居した翌年の延享3年(1746)11月、吉宗は中風で倒れた。危険な状態が続いたが、持ち直して4か月後に快気祝いが催された。しかし、右半身麻痺と、かなり重い言語障害が残った。吉宗は、江戸城西の丸で介護生活を送った。およそ90人もの小姓が入浴など身の回りの介護にあたり、食事からマッサージやリハビリ、気晴らしの娯楽まできめの細かいケアが行われた。当代一流の医師が交代で吉宗の治療にあたった。吉宗は「六君子湯」「補中益気湯」「香砂六君子」「加味六君子湯」「カワウソの黒焼き」などの漢方薬を服用した。しかしそれらの漢方の味がまずいので、残したため、井上俊良が「御薬酒」をのませた。薬をひたしておいた酒だが、これは飲みすぎるといけないので、将軍・家重が盃一杯に制限した。吉宗は箸が使えないので、食事のための専属の小姓がつけられていたという。

地図

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