泉秀樹の歴史を歩く

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旗本 小栗忠順 横須賀ストーリー【2018年10月】

小栗忠順とヴェルニーの胸像(ヴェルニー公園・横須賀)

小栗忠順とヴェルニーの胸像(ヴェルニー公園・横須賀)

いま、まさに国際社会の嵐に向かって船出する幕末日本はどうあるべきか。そのみごとな近代化戦略を組み立てた江戸の未来人がいた。旗本・小栗忠順の天才と疾風怒濤の人生を追跡する。遠い昔と今を結ぶ線を辿る。作家・泉秀樹が歴史の現場を取材し独自の視線で人と事件をプロファイルする!

登場人物プロフィール

小栗忠順

小栗忠順

文政10年(1827)6月23日、江戸・駿河台の小栗家の屋敷(現在・東京YWCA会館)に生まれた。小栗上野介忠順は2,500石取りの名門旗本で「御大身」とよばれる家柄だった。忠順は9歳から小栗家の敷地内にあった安積艮斎の私塾で漢学を学び、剣は島田虎之助に、柔術は窪田助左衛門、その助左衛門の子の助太郎に山鹿流の兵学を学び、砲術は田付主計に師事した。12、3歳からタバコを喫いはじめた忠順にはこんなエピソードがある。播州林田藩主・建部内匠頭政醇を上屋敷に訪ねたときのことである。文武両道の誉れ高かった内匠頭政醇の前で、忠順は臆したふうもなくキセルでタバコをくゆらせた。14、5歳の忠順が、煙草盆にキセルの雁首を叩きつけて吸殻を出す、すぐに新しいタバコを詰め替えて火をつける。その態度物腰は実に堂に入っていてひどく大人びていたという。また、自分が話す番になると、聡明な輝きを目に宿しながら、しっかりした口調できちんと論理的に話をしたという。

第1章 小栗忠順とその未来思考

大老・井伊直弼

大老・井伊直弼

天保14年(1844)3月、17歳の忠順は初登城した。翌年、父・忠高が御留守居番になり、翌々年には忠順も「番入り」を許されて切米300俵を下賜される身分となった。忠順は小柄ではあったが眼光鋭く、精悍で言語理論明晰、登城の際には駿馬にまたがって、たいへん威勢のいい男だった。「番入り」とは、旗本の嫡男が御小姓組か御書院番のいずれかに組み込まれることだ。細かくいうと「於菊之間縁頬」であった。これは、廊下に平伏して命令を仰ぐ者、ということである。その場所は畳廊下ではなく「縁頬」(エンキョウ、エンホホ)つまり、縁の床板に頬をくっつける者と呼ばれたのだ。ペリーの来航により、急激に国防意識を芽生えさせた日本は、アメリカと日米修好通商条約を結ぶことになる。そして安政6年(1859)忠順は日米修好通商条約批准のために、大老・井伊直弼に命じられて遣米使節目付としてアメリカへ向かった。
この時小栗が乗り込んだのがポウハタン号であった。

第2章 横須賀製鉄所とは?

フランソア・レオンス・ヴェルニー

フランソア・レオンス・ヴェルニー

慶応元年(1865)に幕府とフランスとの間で契約が正式に取り交わされ、三浦半島の横須賀湾(神奈川県横須賀市)に製鉄所が建設されることになった。この時に海軍技師フランソア・レオンス・ヴェルニーが招かれ、機械類を調達して、工場建設がはじまった。財政難にあえぐさなかの、非難ごうごうだったこの計画について、忠順はひたすら日本の将来を思って反対意見を無視し、製鉄所建設という事業を推し進めたのである。しかし、同年2月、あまりに物議をかもすことになってしまったため、忠順は表向きには免職となってしまった。江戸城のたいへん多くの人に「忌まれ」ていたというからすごい嫌われようである。また、自分よりもはるか上の幕閣まで馬鹿にして公然と腰抜け呼ばわりしたり、不遜な態度をとることもしばしばだった。とにかく軍政の改革には莫大な費用が必要だった。

第3章 その後の小栗忠順

1号ドック(横須賀米軍基地内)

1号ドック(横須賀米軍基地内)

忠順は、大政奉還のあとどのように生きたのだろうか。忠順は日本と幕府のために生きていた。「度量が狭い」「幕府のことしか頭にない」とまでいわれた忠順は、かたくなに官軍に抗戦することを主張しつづけた。慶応4年(1868)1月13、14日の江戸城において開かれた評定の席でも、忠順は徹底抗戦策を主張し、最後は評定の場から退出しようとする将軍・慶喜の袴をつかんで戦うべきだといったという。そして、忠順は翌15日、勘定奉行兼陸軍奉行などすべての役職を罷免された。万策尽きた忠順は、領地の上野・群馬郡権田村(群馬県高崎市倉渕町権田)に引きこもり、農民として生きる決心をした。横須賀製鉄所は明治政府に接収されたものの資金調達は難航し、慶応4年(1869)政府はイギリス公使パークスの協力で横浜オリエンタルバンクから借金をして製鉄所を存続した。

第4章  小栗忠順の功績とその最後

戦艦みかさ

戦艦みかさ

東郷平八郎

東郷平八郎

権田村に戻ってわずか3ヶ月後の4月5日、東山道軍総督府の命により、忠順は官軍に逮捕されて、翌日には烏川の水沼河原で斬首された。すでに危険を察して母と妻を会津に落ちのびさせてあった忠順は、無実をわめきたてる家臣をたしなめ、泰然と首を斬られたという。逮捕の理由も示されず、取り調べもなく、殺されたのは「天誅」だったということらしい。しかし、忠順が作った横須賀造船所は思わぬ後世に功績を残すことになる。日露戦争の勝利に貢献したのだ。明治45年(1912)夏、東郷平八郎は忠順の遺族を自邸に招いて、日露戦争のとき、日本海海戦ついてを語っている。ロシアのバルチック艦隊に完全な勝利をおさめることができたのは、「小栗さんが横須賀造船所をつくっておいてくれたからです、それが、どれほど役に立ったかわかりません」と礼を述べたという。

地図

  • 横須賀明細一覧図【明治14年】 (クリックすると拡大)横須賀明細一覧図【明治14年】 (クリックすると拡大)
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