泉秀樹の歴史を歩く

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江戸城石垣紀行【2018年9月】

江戸城・天守台石垣

江戸城・天守台石垣

天下統一に王手をかけた征夷大将軍・家康は、関東平野に築城を開始した。二代・秀忠、そして、三代・家光まで、徳川幕府の威信をかけた三十有余年にわたる天下普請によって完成された江戸城。太平の世に君臨したその、世界に類を見ない日本最大規模を誇る石垣の城塞は、どのように築かれたのか。遠い昔と今を結ぶ線を辿る。作家・泉秀樹が歴史の現場を取材し独自の視線で人と事件をプロファイルする!

第1章 関東移封

石垣山一夜城

石垣山一夜城

天正18年、1590年夏、家康は、現在の神奈川県小田原市の笠懸山にいた。豊臣秀吉が、小田原城を本拠に関東一円を支配していた北条氏攻略のために小田原城の西にある笠懸山に城を築いたのである。秀吉は、小田原城からは見えないように城を築き、完成後に周囲の木を伐採し一夜のうちに城を築いたように見せかけたことから「石垣山一夜城」と呼ばれてきた。この城の出現に圧倒された北条氏側の将兵は、戦闘意欲を大きく喪失させたと言われている。その石垣山一夜城から秀吉と家康は小田原城を見下ろし連れ小便をしながら秀吉は、「小田原が落城したら関八州を貴殿に進ぜよう」そう言って、家康に関東への移封を命じた。そしてその1ヶ月後天正18年、1590年8月1日 八朔に家康は江戸城に入城した。

第2章  天下普請

矢筈の刻印石

矢筈の刻印石

家康は、まず、江戸城の土木工事を担う石垣普請の課役を西国の外様大名である加藤清正、福島正則、池田輝政、黒田長政、前田利長、細川忠興、田中吉政、毛利輝元など28家と堺の豪商・尼崎又次郎に割り当てた。命令を受けた大名たちは、石垣に使う石に適した安山岩や玄武岩が豊富にある神奈川県真鶴から静岡県伊豆半島東海岸にかけての海岸線に殺到した。毛利輝元は福原(ふくばら)広俊と益田元祥(もとなが)を普請惣奉行に任じた。福原は毛利家の外戚で歴代広俊を名乗る筆頭家老の家柄であり家中の内政・外交を担当する重臣である。また、益田も毛利の合戦のほとんどに参戦して戦功を挙げ、その内政手腕は家康から徳川の家臣にならないかと勧誘されるほど高く評価されていた。輝元は家中で最もすぐれた重臣二人に石垣普請の総指揮を命じた。

第3章 江戸城の築城 石垣を積む

石曳図屏風

石曳図屏風

神奈川県真鶴町から静岡県伊豆半島にかけての海岸線には、かつて中小零細な海賊が棲んでいたから、操船技術に長けたその子孫たちが格好の人材となった。この事業における大名たちへの調達ノルマは、100万石当たり100人持ちの石を1,020玉であった。大名たちは所領1,000石に1人の割合で人夫を狩りだした。だから彼等は「千石夫」と呼ばれた。10万石の大名なら100人である。すでに天下を制した家康に対して、課役を拒否できる大名はもちろんいなかったが、それどころか家康の意に沿うため、彼等は総数3,000艘にのぼる石材運搬用の船を次々と建造した。1艘の船は100人持ちの石を2個積んで伊豆~江戸の間を2往復したから、全船が1ヵ月フル稼働すると、12,000個の石を運んだ計算である。

第4章 巨大城塞の完成

江戸城の石垣

江戸城の石垣

慶長10年(1605)4月、家康は秀忠に征夷大将軍の職をゆずって引退した形をとった。江戸城の修築事業を引き継ぐことになった2代将軍・秀忠は、内藤忠清、神田正俊、都築為政、石川重次を普請奉行に任じ、縄張り(設計)にはこれまでと同じく、和歌山城、二条城、伏見城などを手がけた築城の名手という聞こえの高い藤堂高虎を当てた。その後、江戸城の修築・拡張・整備工事は以降30年も続くことになったのである。徳川幕府の将軍15代・265年間を支えつづけた江戸城は、周囲四里(16km)、東西五十町(5.45km)、南北三十五町(3.85km)、大手門を中心として螺旋状に江戸の市街地を巻き込みながら、浅草橋までひろがっている巨大な城塞であった。

地図

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