泉秀樹の歴史を歩く

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黒田官兵衛の九州征圧作戦【2018年8月】

中津城・天守閣(大分県中津市)

中津城・天守閣(大分県中津市)

慶長3年(1598)8月18日、秀吉はその生涯を終えた。黒田官兵衛は息子・長政に家督を譲り、豊前・中津城で隠居生活を送っていた。しかし、慶長5年(1600)9月9日、官兵衛は、突然、9,000もの傭兵を集め、九州征圧の進軍を開始した。関ケ原の合戦の6日前のことだ。秀吉旗下にあって「名軍師」とたたえられた黒田官兵衛はなぜ九州征圧に駒をすすめたのか?9,000の傭兵をひきいて55歳の官兵衛はなぜ戦いつづけたのか?その究極の目的はどこにあったのか?遠い昔と今を結ぶ線を辿る。作家・泉秀樹が歴史の現場を取材し独自の視線で人と事件をプロファイルする!

登場人物プロフィール

黒田官兵衛(くろだかんべえ)

黒田如水(大分県立歴史博物館蔵)

黒田官兵衛(くろだかんべえ)

黒田官兵衛は、西播磨の御着城主・小寺政職の家老・黒田職隆の嫡男として生まれた。「官兵衛」は通称で本名は「孝高」また小寺家の家臣時代は小寺姓を名乗っていた。のちには剃髪して如水(じょすい)と名乗った。永禄10年(1567)に、官兵衛は父の家督と小寺家の家老職を継いで姫路城代となった。同じ年、織田信長が全国の諸将に先駆けて室町将軍・足利義昭を奉じて上洛し、世は戦国乱世の真っ只中に突入していた。

第1章 西軍征伐の進軍

官兵衛と光と中津城天守閣(大分県中津市)

官兵衛と光と中津城天守閣(大分県中津市)

慶長5年(1600)7月17日、石田三成は天下を窺う家康を倒すため兵を挙げた。家康派・東軍、三成派・西軍に分かれた内戦が勃発したのである。この知らせを中津城で聞いた官兵衛は、隠居の仮面を脱いで動き出した。たくわえてあった金銀や米を使って浪人、農民、職人、誰でもよいとして9,000もの傭兵を集めた。慶長5年(1600)9月9日、関ヶ原の戦いの6日前、官兵衛は9,000の兵を率いて中津城を出発した。官兵衛は石田三成からの西軍参加要請に対して、「九州7か国をもらいたい」と条件を出して、西軍についた九州の武将たちが東に進軍する様子を静観していた。家康とは、九州を切り取り次第、官兵衛のものにしても良いという密約を結んでいた。官兵衛は東軍、西軍、自軍に保険をかけつつ、東軍として九州の西軍討伐に出発したのだった。

第2章  九州の関ヶ原・石垣原の戦い

杵築城天守(大分県杵築市)

杵築城天守(大分県杵築市)

杵築城は別府湾を望む海に突き出た小高い丘の上に建つ天然の要塞だ。杵築城は東軍・細川忠興の飛び地である。旧領主の大友義統に攻められ、本丸のみを残すだけとなっていた杵築城を官兵衛の先遣隊が間一髪で助けた。大友軍は「官兵衛来る!」の報せを受け、別府立石山に退いて本陣を構えたので、先遣隊は角殿山に本陣を敷いた。官兵衛本隊は安岐城から向かっている。両軍は石垣原で激突した。大友義統は、奇しくも関ヶ原の合戦と同じ日に降伏し義兄弟の黒田家家老母里太兵衛に付き添われて官兵衛の前に頭を垂れた。後に九州の関ヶ原と呼ばれた「石垣原の合戦」は黒田軍の井上九郎右衛門と大友軍吉弘嘉兵衛の一騎打ちなどの名勝負を残し、黒田軍の圧勝で終わって400年続いた名家大友家はここに滅びた。

第3章 官兵衛の野望

島津義弘像(鹿児島県日置市・伊集院駅)

島津義弘像(鹿児島県日置市・伊集院駅)

安岐城、富来城を開城させた官兵衛は、中津で別動隊と合流して、小倉城を目指した。我々はその別動隊が攻めた2つの城に向かうことにした。角牟礼城は、大友義統が改易となると毛利高政が入封した。この毛利時代に石垣造りの近世城郭へと改修されていった。角牟礼城は標高576mの角埋山に築かれており、切り立った岩山に囲まれた要害になっている。日隅城は、慶長元年(1596)毛利高政が二万石の所領を賜って日隈城に入り、五重の天守を備えるなど城を改修した。天然の川を堀とした城で、山頂の主郭には日隈神社が鎮座している。かつては五重の天守があったと云われる。官兵衛は、次々とこれらの城を開城させ、鍋島直茂、加藤清正に立花宗茂を加えた4万の軍勢で九州最後の敵勢力である島津討伐に向かって南下した。そして、薩摩目前の水俣まで来た11月12日、家康から報せが届いた。家康から停戦命令が届いたのだった。

第4章 福岡の祖

福岡城・本丸

福岡城・本丸

慶長6年(1601)1月、官兵衛、長政父子は筑前名島城へ入った。そしてすぐに那珂郡福崎に新城を築くことを決めた。この計画は低い丘陵を利用した平山城で、頂上に本丸を置き、東西南北に城郭を配置した。それぞれ階段上に切り開いた壮大な規模であった。また、官兵衛は、新城を築く福崎の地名を福岡と改めた。名島城は、関ヶ原で長政の説得により東軍に寝返った小早川秀秋から引き継いだ。名島城は52万石にしては、手狭だったため新しい城を建てることになった。官兵衛は隠居しているといっても未だに力を黒田家の内外に保っていた。地名の変更も官兵衛の一言で決まり、新しい城の名前も福岡城となった。これは黒田家ゆかりの地・備前福岡からとったといわれている。そして、明治維新まで続く黒田福岡家中がここから始まった。

地図

  • 官兵衛進撃図(クリックすると拡大)官兵衛進撃図(クリックすると拡大)
  • 官兵衛進撃路(クリックすると拡大)官兵衛進撃路(クリックすると拡大)
  • 官兵衛進撃図官兵衛進撃図
  • 官兵衛進撃路官兵衛進撃路

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