泉秀樹の歴史を歩く

泉秀樹の歴史を歩く

大阪・高槻 きりしたん武将 高山右近【2018年7月】

高山右近像(城跡公園・高槻市)

高山右近像(城跡公園・高槻市)

高槻は大阪平野の北東部にあり、古来より、淀川と西国街道という水陸二大交通路の節所、要衝にある。今回の「泉秀樹の歴史を歩く」は高槻城跡に作られた公園からスタートしよう。城をイメージした園内の石垣と堀が城下町の風情を伝えている。そこに建つ銅像が手に持つのは十字架を模した剣である。ジュストという洗礼名をもつ、天正元年(1573)21歳で、高槻城主となった高山右近だ。高山右近は織田信長と豊臣秀吉という天下人に仕えた。右近は武人としての才に長けており、山﨑の合戦では明智光秀軍に対する秀吉方の先鋒として、凄まじい戦いを展開した。また、茶の湯の世界では、千利休の弟子「利休七哲」の一人にも数えられた。この高山右近とは、いったいどのような人物だったのだろう?遠い昔と今を結ぶ線を辿る。作家・泉秀樹が歴史の現場を取材し独自の視線で人と事件をプロファイルする!

登場人物プロフィール

高山右近(たかやまうこん)

高山右近(たかやまうこん)

右近はこのザビエルが亡くなった天文21年か22年、摂津・三島郡清渓村高山(大阪府豊能郡)に生まれたといわれる。高山家は宇多天皇の皇子・敦実親王を祖する地頭職の家柄で、右近の父・友照(飛騨守)は背の高い、膂力に秀れた快活な男であったという。愛情深く、合戦の戦術、武芸にも長じ、乗馬も得意な、そしてその生きかたから、なによりも聡明であったことがわかる。右近の母はマリアという洗礼名しか残っていない。

第1章 高槻城主への道

高山右近生誕の地(大阪府豊野町)

高山右近生誕の地(大阪府豊野町)

右近の父・友照が武将として頭角をあらわすのは永禄元年(1558)に松永久秀(弾正)の配下として家臣300をひきいて大和・宇陀郡榛原町(奈良県)の沢城の城主になってからである。イエズス会の宣教師が奈良で友照と偶然出会ったことが、右近の人生を左右した出来事となる。いわゆる幼児洗礼であったから、宗教的な必然性があったとはいえないものの、このことによって右近の人生にはキリシタン信仰が大きな影響をあたえることになる。右近は17か18歳で遠縁にあたる摂津・余野郡(大阪府豊能郡)の黒田氏の女ジュスタを娶った。右近はこの時代の武将の息子らしく粗暴な青年に育っていったのではないかと泉は言う。それは郡山(大阪府茨木市)の糠塚の城に拠っていた和田惟政の長子・惟長と対立したときは刀を抜いて斬り合い、みずからも重傷を負いながらこれを斬殺していることからもわかる。

第2章 陰謀のはじまり

高槻城二の丸跡南西部の発掘調査説明会の様子

高槻城二の丸跡南西部の発掘調査説明会の様子

右近は21歳で城主となり、父友照(飛騨守)とともに高槻の城と城下を整備し、その一画に教会を建設したのだった。右近は城下に20を超える教会を建設し「きりしたんの大旦那」と呼ばれた。当時高槻の人口25,000人のうち、7割強がキリスト教信者であったとも言われている。右近は高槻城内守護の野見神社を没収し、ここに天主教会堂を建てたのだった。そして、城郭の縄張り(設計)、普請(土木工事)の天才であった右近は先進的な城作りを始めた。堀の中には、農民であったり、職人であったり、当然武士も住んでいた。城の周りに町がありその周りを掘りが囲んで城下町が出来上がっていた。こういった城下町の形は江戸時代に見られるもので、戦国時代には一般的ではなかった。その後高槻城は、元和三年(1617)右近が築いた城を徳川家がてこ入れをし、石垣を積んだ三層の天守閣を設けるような城づくりが始まる。

第3章 きりしたん武将と千利休

妙喜庵 茶室(大山崎町歴史資料館実物大模型)

妙喜庵 茶室(大山崎町歴史資料館実物大模型)

高槻(大阪)における高山友照(飛騨守=ダリヨ)と右近(ジュスト)父子の生活はキリシタン信仰の日課を軸に営まれていた。ほとんど修道士に近い生活を営んでいたのだが、それでいて信長と秀吉のもとで、右近は戦いに長けた武将として認められていった。愛を説くキリスト教を信じる一方で戦争に勝ちつづけ、殺戮しつづけたということである。やがて、右近は大きな危機に遭遇しなければならなかった。天正15年(1587)6月19日に九州征伐の途次にあった秀吉が博多・箱崎宮の本陣で発した「伴天連追放令」である。秀吉はこの命令を出したその夜、利休を使者に立てて右近にキリシタンを棄てよという命令を伝えさせた。利休は右近に、とにかく表面だけでもキリスト教を棄てるようにと説いた。しかし右近は、「軽々しく改め変えることは武士の本意ではありません」とこたえたという。

第4章 加賀前田家と国外追放

前田利家像(兼六園・石川県金沢市)

前田利家像(兼六園・石川県金沢市)

秀吉は激怒して右近の領地を没収し、追放に処した。35、6歳であった右近は、現役の武将であることから引退して親しかった友人の小西行長の領地であった室津や淡路島や小豆島に家族ともども隠れ住み、行長が肥後・宇土に転封されると、天草の湯島(談合島)に潜伏した。文禄・慶長の役がはじまると、右近は秀吉に呼び出されて名護屋城(佐賀県)へ赴き、茶の席で罪をゆるされ、自由な身分を回復することができた。小西行長や石田三成らの取りなしがあったからで、間もなく自由の身になった右近を前田利家が引きとり、加賀・金沢で客将として遇されることになった。加賀・金沢で暮らすことになった右近は、以後25年間、前田家の庇護下にあって南坊(みなみのぼう)と名乗り、茶の湯と祈りに生きた。しかし、徳川幕府の時代に変わり家康が出した「伴天連追放令」は、秀吉のとはちがって、全面的かつ徹底的なキリシタン禁制だったため右近はさらに追い込まれることになる。

地図

  • 高槻周辺図高槻周辺図(クリックすると拡大)
  • 山崎の合戦布陣図山崎の合戦布陣図(クリックすると拡大)
  • 高槻周辺図 高槻周辺図
  • 山崎の合戦布陣図山崎の合戦布陣図

過去の放送はこちら

J:COMへのお申し込み

Copyright (c) JCOM Co., Ltd. All Rights Reserved.

J:COM

Copyright (c) JCOM Co., Ltd. All Rights Reserved.
ケーブルインターネットZAQのキャラクター「ざっくぅ」