日本の歴史上、初めて本格的な武家政権である、鎌倉幕府を開き、武士の世を作り上げたのが「源頼朝」であることは周知の事実である。が、その影にもう一人の主人公がいた。今回の「泉 秀樹の歴史を歩く」は700年に渡る武家政権の礎を築きあげた影の男の生涯を取材・検証してみよう。その男の名は「北条時政」である。
北条時政…
源頼朝の正室・北条政子の父。鎌倉幕府初代執権。
北条氏は桓武天皇の流れをくむ平氏の家柄で、現在の静岡県、伊豆の国市韮山周辺に土着した伊豆では有力な豪族であったといわれている。しかし、社会的な地位はそう高くなかったともいわれている。北条時政は平安末期の保延4年(1138)に生まれた。しかし、23歳になった永暦元年(1160)2月、14歳の源頼朝が流人として伊豆に流されて来る時まで、時政がなにをしていたかは、史料が無く定かではない。
北条郷一帯は、伊豆北部の田方平野を流れる狩野川の氾濫原であり、伊豆の国府の三島大社や狩野川の舟運や東西を結ぶ道路(のちの東海道) に近いことから、また、時政以降の歴代北条氏が好んで港湾を自領としたことから想像すると、北条家は流通を利用した貿易商社的な要素の強い比較的富裕な豪族で、居館は狩野川の畔の守山(海抜100mほど)の北麓にあった。ここに生まれた時政は、山野を駆けめぐって成長し、元服(時期・場所不明)して在庁官人(地方官庁の役人)として働いていたと言われている。
旧東海道、現在の国道1号線が相模川を渡る馬入橋の1㎞ほど東にある公園の池の中に旧相模川の橋脚の一部が残っている。建久9年(1198)12月27日,頼朝はこの橋の橋供養に参列した。式は無事に終了したが、このあと事件が起こった。橋の渡り初めを行ったあと、鎌倉へ帰る途中、頼朝が乗っていた馬から落ちたのだ。頼朝は落馬事故から20日も経たないうちにこの世を去ってしまった。それは時政61歳の時の出来事だった。頼朝の急死は変死、横死、怪死の類であると映った。
比企能員は鎌倉幕府における勢力を大きくさせ、時政と並ぶ鎌倉での二大勢力になっていった。そのバランスが崩れたのは建仁3年(1203)8月、二代将軍・頼家が病に倒れて死を予測しなければならなくなったときである。時政は頼家の子・一幡を関東28か国の地頭と総守護職に、関西38か国を後に実朝となる頼家の弟、千幡に相続させることにした。これに満足しなかった比企能員は、頼家に時政は専横であると訴えた。その訴えが比企一族をほろぼすことになる。
時政の妻、牧の方は朝雅を将軍にするため、時政邸に同居していた実朝暗殺を画策した。その暗殺計画を察知した実朝の母・政子は実朝をいち早く弟・義時の居館にかくまった。牧の方のクーデター計画は、これで失敗した。時政はただちに出家して出身地の伊豆・韮山へ隠居した。政子と義時に隠居させられたというべきか。時政はこの時から10年後の建保3年(1215)1月6日に没した。享年78。鎌倉幕府で最高の権力を誇ったもののふとして、何を思い、旅立ったのであろうか。
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